「婦人」になれずに職を転々〔個人史7〕
ごきげんよう、冬のはじめ頃にいつもすき焼きを食べたくなるおじさんです。
仕事を改めたく何と海上自衛隊の門をくぐったおじさん。練習員課程では小学校入学時以来の性別問題に行き当たったのでした。服装もネックではあったけど、問題は服装だけではなかったなあ。
と振り返る今回の記事です。
教育隊練習員課程
おじさんが振り分けられた班には北海道から九州・鹿児島まで、さまざまな街から若者が集まってきていました。みんな未成年です。ハタチ過ぎているのは班員11名のうち、おじさん含めて3人のみでした。このとき生まれてはじめて「もう若くはない」と思いました。
実際はそんなことはないのだけど、自衛隊(特に練習員課程)は体力勝負と言えるのでね。最年長は出戻り組(一度入隊したけど何らかの理由で練習員課程の途中で辞めた人)の25歳でした。
練習員課程てのは何をするかってーと、まずは陸警備訓練。気をつけ、右向け右、左向け左、まわれ右、敬礼、挙手の敬礼などの基礎動作と隊列を組んでの行進を学びます。これをまる1ヶ月ほど、カンペキにできるようになるまで徹底的に練習します。
自衛隊だの警察だのに興味がない人は割りと誤解しているのですが、こういった部隊で行われる「敬礼」というのはお辞儀が基本です。しかも浅いお辞儀。「10度の敬礼」と言って、上体を10度だけ前方に傾けます。
深く傾ける「45度の敬礼」は「最敬礼」とも呼ばれ、天皇陛下か亡くなった人に対してのみ行うものです。たとえば上官に深々とお辞儀をすると「まだ死んでない」と言って怒られたりします。手刀を額のわきにかざす「挙手の敬礼」は帽子をかぶっているときだけ行う敬礼です。
といったことを、無意識にできるまでになるよう練習します。その他、海上自衛隊では手旗信号の基礎やカッター(ボート)訓練、執銃訓練などか前期練習員課程(基礎教育)で行われます。おじさんが知っているのはここまでです。おじさんは練習員課程を終えることなく退隊してしまったからです。
おじさんは婦人になりきれなかった
20代前半のおじさんはまだおじさんではなく、世を忍ぶ仮の女性でした。当然、入隊は婦人自衛官として婦人自衛官の練習員課程に入りました。現在は「女性自衛官」と呼ぶことになっているようですが、当時は「婦人自衛官」と呼んでいたのです。海上自衛隊には「婦人自衛官の歌」なんて隊歌に準ずるものもあって、入隊式やらで歌いましたなあ。
婦人自衛官の制服の基本型はタイトスカートです。高校卒業以来のスカート、しかも着るたびに皺を撲滅しなければならない苦行つき。
普段の訓練は作業服なのでズボンですが、公式の場所や休日に外出する際は制服です。練習員は教育隊の宿舎で生活しますが、教育隊の敷地外へ出るときは必ず制服を着けなければなりません。
制服は一度でも着たら必ずアイロン。自衛官の服には皺があってはいけないからで、外出前には上官による皺チェックがあります。ひとすじでも皺があると外出許可は下りません。
制服を着るたびに直面する「自分は『婦人』自衛官なのだ」という事実。「自分は自衛官になりたがったけど、婦人自衛官になりたかった訳ではない」という気持ち。それらが戦う……つまり葛藤するんですな。
割りきるということができれば、こんないい仕事はなかったのです。定時で終われるし、休日出勤しても必ず代休をもらえるし、完全週休2日制だし、上官の指示に忠実に動いていればいいし(むしろ命令にないことはしてはいけない)、人見知りしがちなおじさんだけど同期入隊の人たちとも仲よくなれたし、訓練はキツいけど身体を動かすことばかりで健康的だし……。
そういったメリットを考え合わせても、当時のおじさんには「婦人自衛官である」ことが耐えられなかったのです。前期練習員課程が終わるのを待たずに退隊と相成りました。
でもね。ここで辞めずに2任期(5年)もがんばれば性別適合手術の費用なんて、きっとすぐ貯まったんだよねー。部隊暮らしなら家賃も不要で食事も無料、賞与年3回だし。
てことを性別移行を決意する頃から思い直したおじさんは、後に再入隊を目論んで採用試験を受験し直すのですが、バブル期が過ぎて就職氷河期、志願者が増えて試験は次第に厳しくなり、出戻りなんてとても採用にはなりません。おじさんがはじめて入隊したときにはいたんですけどね、出戻り組。
当時の年令制限ぎりぎりまで5~6回受験しましたが、とうとう再び採用されることはありませんでした。
「採用試験のために」を言い訳に
前述したように、自衛官の採用試験は春と秋の2回あります。そのいずれも受験し倒したおじさんは「受験を経て合格する予定なのだから」とずっとパート・アルバイトでお茶を濁してきました。「長期間勤めることもないのだから」と敢えて期間限定の短期アルバイトを選んで就いたりもしていました。
おかげで下記のようにいろんな 触手 職種を経験することになりました。
はじめて「働く」ということをするようになってから持病で倒れてしばらくお勤めから離れるまでの間に、憶えているだけでこれだけのことを経験しました。憶えていないものももちろんあります。
憶えているだけで1ダース以上の職種を経験していますね。このうち3社は正社員として勤めましたが、3社も勤めたってことは長続きしてないってことですな。おじさんの場合は、仕事が厭で転職する訳ではないんです。
正社員にならなかったものは「自衛官になるから」という理由で短期間で終われるものを選んでいたこともあったのことですが、それ以外の理由も当然あります。そのだいたいが、おじさんの タイ人 対人スキルの乏しさにあると言っても過言ではないでしょう。
前回のおじさんの個人史〔6〕でちらっと申しましたが、おじさんは20歳を過ぎるまでファストフードの店で注文することさえできない人でした。他者と会話することが怖いというか億劫というか、苦手だったのです。
それでも何年か働くうちにだんだん話せるようになって、特にテーマパークのキャストを経験してからは、ときには積極的に自分から話しかけるようにもなりました。だから、新しい職場に入っても、できるだけ先輩・上司諸氏とコミュニケーションを取って馴染もうという努力は(おじさんなりに)しました。
しかし、おじさん側の努力だけではどうにもならないこともあるのでした。おじさんの努力なんてほかの人ができることに比べれば「できて当たり前」のことだったのかもしれませんが、それでもできるだけのことはしたのです。でも駄目だったのです。
どんなことがあったのか。次回はそのお話をしてみましょう。ちょっとイヤな感じのお話をしてしまいますが、次回もよろしくお願いしますね。
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ウカツにエーキョーされて志願の巻〔個人史6〕
ごきげんよう、りんごは生より火を通した方が好きなおじさんです。
長い長い大河シリーズ、おじさんの個人史。いままで通し番号を振ってきましたが、各回の内容に沿ってタイトルをつけることにしました。その方が読む人もおじさんもきっとわかりやすい。よね?
前回まではおじさんの学生時代にふれていた個人史、今回からはたらくおじさんのお話です。
おじさんと仕事
おじさんは、内にこもった子供でした。人見知りがひどく、自分からは他者と関わらない子供でした。それがそのまま育ったものですから他者と口を聞くことが大仕事で、20歳を過ぎるまでファストフードの店で注文することさえできなかったのです。
おじさんが学生ではなくなり、働く人になったのは19歳の秋口のこと。職場でのおじさんも推して知るべし、です。
はじめての職場は、既にお話した通り、とある工場でした。はじめて配属された先は、最早や定年退職の日を待つばかりの人ばっかりが寄せ集まったのんびりした部署。はじめて「働く」ということをする、右も左も前も後ろもわからないおじさんでも、現場の人たちは気長に指導して何とか使える作業員に仕立ててくれました。
しかし、この職場には難がありました。お給金が、とてもお安い。
おじさん、一応大学に進学したんですが、訳あって一瞬で退学してしまいました。その「訳」のひとつには「経済的理由」てのもあって、だから働きはじめたのですが、1年勤めても昇給の幅がやたらと狭かった。初回の昇給幅が時給にして20円。
これはここで勤続してもいつまでも薄給のまま。それを思っていた頃に2冊の本と出会います
1冊は『別冊宝島 裸の自衛隊!』(当時・JICC出版局/現・宝島社)、もう1冊というか1作は『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ/講談社)です。
もうおわかりですね。うかつに影響されてしまったのです。
当時はまだバブル経済の栄華が残っていた頃。自衛隊が国外へ出ていくことなんてあり得ないと考えられていた時代です。完全週休2日制の、規律正しい職場。3食提供されて賞与年3回。目が眩みました。そして単純な艦艇への憧れ。
当時まだ20代前半でまだおじさんではなかったおじさんは「取り敢えず資料だけ取り寄せてみよう」と思い、街に貼り出された「自衛官募集」のポスターの横にくっついている資料請求はがきを持ち帰って必要事項を記入の上、投函しました。
そしたら、資料と一緒に広報官(自衛官募集事務所の職員=自衛官)が家に来ました。
家族とともに広報官氏の話を聞くうちに、あれよあれよという間に一般採用試験(現在の自衛官候補生試験)を受験することになりました。ここからおじさんの仕事遍歴がはじまります。
転職最初の一歩は特別職国家公務員
おじさんが受けた自衛官採用試験は「一般」、合格すれば2士(2等陸・海・空士)に任官し、初頭教育課程(約3箇月)を経て各部隊に配属されるというやつです。現在で言う「自衛官候補生」ですが、現在の制度では試験に合格して初等課程を終えてから2士に任官するようです。
おじさんが資料請求はがきを出したのは5月だったので、ほかの一般曹候補学生だとか技術曹だとかは受験時期を既に過ぎていたし、防衛大学校は当時はまだ女性は入学できませんでした。こうして振り替えるとめちゃくちゃ昔の話ですね。一時代過ぎてしまった感。
当時のおじさんが受けた自衛官採用試験の内容は、筆記試験・口述試験・適性検査・身体検査です。自衛官は女性の場合、身長150cm以上必要です(1990年頃の規定)。
ほか、肥っていてもいいけど肥り過ぎは駄目、虫歯がたくさんあると駄目、重い持病があると駄目など、身体検査で予めクリアする必要がある項目は割りと多めです。適性試験はクレペリン検査とか谷田部ギルフォード検査とか、よくあるアレです。運転免許取るときにやるやつね。
試験は最寄りの陸上自衛隊駐屯地(2つ隣りの県)で行われました。駐屯地内に自衛隊病院があるので身体検査はそこで行います。実に当たり前のことですが、受験するおじさんとほか2人以外のそこにいる人は医師や看護師も含めて全員自衛官なんですな。当時はそれが何だか不思議に感じました。
おじさんが受験した頃は、自衛官のなり手がいなくて募集事務所の人がやたら苦労していた頃です。街なかでぼんやり信号待ちなんかしていると誰彼構わず「自衛隊に入りませんか」とリクルートされてしまうという「笑い話」があったくらいです。
自衛隊リクルートの苦労話の例としては、前述の『裸の自衛隊!』という実録本によると、あんまりにもなり手がいないので、自分の名前を漢字で書けない人まで「魔法を使って」入隊させていた、という話もあります。
それくらい志願者が少なくて、それだけに入隊しやすかった時期の、終わり頃でした。間もなくバブル期が終わって、入隊条件がどんどん厳しくなっていくのです。
さて、おじさんが受験したのはとても入隊しやすい時期だったし、どうしても自衛官になりたいという訳でもなかったので、結構気軽に受験したのでした。筆記試験は国・英・数の3科目で各科目4択で回答、レベルは中学卒業程度の学力とされていました。口述試験というのは面接のことです。
おじさんはこれにするりと合格して、あれよあれよで入隊することになりました。
はじめて家を出る
当時はまだ女性自衛官ではなく「婦人自衛官」と呼ばれていて、その数も陸上自衛隊以外ではまださほど多くはありませんでした。自衛隊は「輝号計画」というイメージアップ作戦のもと、自衛官増員及び婦人自衛官を積極的に採用して配属範囲を拡げるということをしていました。
自衛隊採用試験は陸海空共通で、口述試験時に配属希望先を(一応)訊いてもらえます。希望と試験で判断された適正を総合して配属先が決まります。おじさんの希望はもちろん海上自衛隊。口述試験で「海上に配属されないなら入隊しません」と言いきったのがよかったらしく、希望通りの入隊が決定しました。
婦人自衛官の入隊時期は春と秋の2回あって、おじさんは秋組に入りました。これは受験及び合格の時期によります。春組は学校卒業すぐの人たち、秋組は中途採用の人たち、という風に必然的にその割合が多くなります。
春組は国内5ヶ所くらいで教育が行われますが、秋組は海上自衛隊の場合は横須賀教育隊一択です。おじさんは近畿の端っこの住人だったのですが、荷物をまとめて夏の終わり頃に横須賀へと旅立ちました。
このときまでおじさんはずっと実家暮らし。実家以外で寝泊まりなんて入院したときと修学旅行くらいしかありません。自分で旅行に行くことすらなかったのです。どちらかというと不安の方が多い状態で出発しました。何と募集事務所の広報官氏が家まで迎えに来て駅まで送ってくれるのです(逃げられない)。
ちょうど映画『魔女の宅急便』が公開された頃で、乗せてもらった広報官氏の車のカーラジオから、件の映画のエンディングテーマ曲『やさしさに包まれたなら』が流れてきたのが印象的で、いまも憶えています。
着隊日から入隊式までは、地方から集まった入隊候補者らは隊内でとても大切に扱ってもらえます。「班長」という、教育隊での班(9~11人の単位)に1人つく担任教師的上官も親切でやさしいです。
しかし、入隊宣誓書に署名・捺印した瞬間から、日本各地から集まった採用試験合格者たちは「自衛官」となります。その瞬間から「お客さま」ではなくなり、班長たちも鬼のよーな存在となります。
ここから約半年間の「練習員課程」での基礎教育を経て、新人自衛官は各部隊へと配属されていきます。おじさんも半年間を横須賀教育隊で過ごすはずだったのです……が。
「が」と言えば逆接の接続詞。逆接するお話をこれからせねばならないのですが、続きは次回に。
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女性であることを求められて〔個人史5〕
ごきげんよう、道の駅の記念切符を集めているおじさんです。
個人史においての「社会的性についての葛藤」について綴っております。いわゆるトランスジェンダーの悩みというのはおそらくここに重点があるのではないかと思います。「社会の中での自分の性についての違和」を感じて、それを何とかしたいのがトランスジェンダーであろう、という(おじさんの)解釈です。
性同一性障害というのはその上に「生物学的性についての違和」があって、どちらかというとこちらの方が重点となっている。と、おじさんは思っています。
「生物学的性についての違和」の解消について、つまり性別適合手術については既にこのブログのはじまり辺りに集中してお話ししておりますので、も少し社会的性のお話を続けますね。
女性はうつくしかるべきものか
おじさんは27歳の半ばまでは、女性らしい格好や行動をしていた訳ではないものの、世を忍ぶ仮の女性として生活していました。そのため「女性である」それだけを理由に差別されるもしくは差別的な扱いを受けることがあるということを知っています。
かわいくない、うつくしくないとされる女性を、男性は非常に蔑ろにします。これは年令の長幼は関係ありません。小学生男子もかわいくない、ブサイク女子を物体よろしく扱います。
たとえば。
小学校も中学年以上になると、男子も女子も性を意識しはじめます。すると運動会では蔑ろにされる女子が現れはじめるのです。主な理由はフォークダンスです。
現在では混合列を組んでいて多少はましになっているのではないかと想像するのですが、おじさんが学校に通っていた頃は男女別に列をなして、男子は女子と、女子は男子と手をつないで踊ることを余儀なくされていました。
クラスの人数によっては背が高い人の一部はそれを免れることもあり、おじさんはときどきその恩恵に与ることもありましたが、そうでないときは男子生徒の話題の的でした。
「うわ、俺おじさんと踊らなあかんかも」
「1、2、3……俺ギリギリセーフや、やった!」
「うーわー、俺当たってまうわー、変わってくれよー」
(もちろん当時から「おじさん」と呼ばれていた訳ではありません。便宜上「おじさん」としております)
ちょー明らさまに、しかも臆面もなく憚ることなく、本人がいる場所で本人に聞こえるのも構わず、おじさんと手をつないで踊ることを厭がってくれるのです。一度や二度ではありません。これが高校を卒業するまで毎年あるのです。
手をつなぐ場面というのはフォークダンスのときばかりではありません。小学生の間は遠足という機会もあります。長距離行軍の際ははぐれないようにと2列縦隊で隣り合う者同士が手をつなぐよう指示が出ることがあるのです。そしてこのときも、男子1列女子1列の2列縦隊なのです。
おじさんと隣り合った男子は、おじさんの真横でおじさんとペアになったことをこの世の終わりのように絶望してみせます。指示が出たのに手をつながないと教員らに叱られるというので、小指だけでつないだりします。
それは思春期のポーズなのかもしれません。しかし、ことあるごとに厭がられること、それが胸の底に少しずつ少しずつ蓄積していくことを、男子のみなさんは考えたことが、想像なすったことがあるでしょうか。高校生になると思想の違いからか一部の女子からも厭がられましたけども。
その他、校舎の廊下をただ歩いているだけで、怪物扱いされます。別の学年の見知らぬ男子生徒から、中学生の頃は「ゴジラ」と、高校生の頃は「クッパ」と呼ばれていました。そういうことは本人に聞こえないところで言いなさい。
毎年恒例のことですから慣れてもいいものですが、10年近く慣れることができないまま学生を卒業しました。
働くようになってからはさすがにそのようなことはなくなりましたが、性別によって扱われ方が異なる場面というのは、その後もたびたび出会います。
女性の仕事と制服
働きはじめた頃のおじさんはまだ世を忍んでいて女性として働いていたのですが、割りと女性性を求められない職場でした。電気製品を組み立てる工場だったのです。でも、仕事を少し離れると「女性の仕事」が発生しました。お茶くみです。
おじさんがいた工場では10時と15時に10分間の休憩があって、そのときには休憩所にある4つのテーブルにそれぞれ6~7杯のお茶を用意しなければならず、それは現場にいる女性の仕事でした。当時の工場は女性の数が少なく、5~7日に1回はお茶当番が廻ってくるのでした。
勤めはじめたときに指導を担当してくれた男性社員が、「お茶くみは面倒な仕事」という認識を持ってのことか、お茶くみの仕事をおじさんに伝えた後、このように仰いました。
「ごめんな、女の子やからな」
時は既に平成で雇用機会均等法も施行されてはいましたが、時代はまだまだ変化の前だったのですな。
さて、その後。
紆余曲折あって、おじさんは一旦この職場をやめて、数年後に今度は男性として勤めはじめます。工場は町ひとつ分ほども広くて、最初に勤めた部署とはまったく違う部署に配属されたので、以前のおじさんを知る人はそこにはいません。だからこそ性別移行後の職場にこの工場を選んだのです。
工場という職場ではたいてい作業服が制服として支給されて、男性と女性では服のかたちが違います。お茶汲みしていた頃のおじさんは女性用の、事務服に似たかたちの制服を着ていました。任意の普段着に上着を羽織るだけでOKの格好です。
しかし再び勤めたときは、男性用の作業着が支給されました。上下揃いの飾りっ気がまったくない作業着です。これを着たかったんだなー、と思いながらそれを着けたときおじさんは、ずいぶんしっくりきたことを憶えています。サイズが合ったというのとはまた違った、非常なフィット感でした。
しかし、それを着る時間は長くは続かなかったのです。
手のひらを華麗にターン
試用期間の3ヶ月が過ぎ、社会保険をつけてもらえることになった辺りのことです。現場のでの作業にも慣れてきて、いつものように仕事をしようといつものように出勤すると、班長をはじめ現場の同じ部署の人たちの態度がどうにもよそよそしいのです。
おじさんが3ヶ月勤めて現場に慣れたということは、現場の人たちもおじさんと3ヶ月一緒に仕事をして、おじさんに慣れているということです。それが証拠に、昨日まで仕事の指示などをほかの作業員同様にくれていたし、力仕事も当然任されていました。
それが、その日は朝からよそよそしさ+妙な丁寧さを以て、誰もがおじさんに接してくるのです。いつも隣りに並んで作業していた年配の同僚などは、おじさんが少し大きな部品を移動させようとすると、作業の手を止めて手を貸してくれようとしました。
この部品、昨日もその前の日も、おじさんは一人で運んでたでしょ?
さらに、おじさんを呼び止めるときに昨日まで「おじさんくん」だったのに、今日は「おじさんさん」と呼んでくれます。
あー、と思いました。
現場にいる作業員は、同僚の素性など知りません。いつも接する態度・言動と作業服の胸に付いている名札が、お互いに知り得るデータのすべてです。ファーストネームや居住地やその他のデータを知り得るのは事務所で書類を扱う人だけです。
現場にいる人はそれらデータにふれることがないはずですが、現場の偉い人即ち班長だけは事務所と現場を行き来します。班長は、おじさんの社会保険加入の手続きについて、事務所で知る機会があったのでしょう。そして知り得た事実、つまりおじさんの戸籍上の性別という個人データを現場のほかの作業員たちに漏らした。
おそらくはそういった過程でおじさんがいる部署の人たち――もしかしたらほかの部署の人たちも――は、当時のおじさんの戸籍上の性別を知って、おじさんへの接し方を変えたのでしょう。
その態度の変わり方というのが、それは見事に「手のひらを返すが如く」でした。「『手のひらを返す』ってこういうことを言うんだ」と感心してしまったほどです。腹が立つとか悲しいとか心苦しいとか、そんなことよりも、昨日と今日とで同じ人が同じ人物に対しての態度をこんなにコロッと変えることができるものなんだな、と驚くことに精一杯でした。
こういった現場にその後も平気で勤められるほど当時のおじさんは強くなかった。間もなく退職して、仕事ジプシーになるのです。
実はというほどでもない事実なのですが、おじさんは社会不適合者です。一般の人と同じように社会の中で生活することができない人です。次回はこの辺りについてお話ししていくことにしましょう。ではまた。
▼Life goes on, so let's click, click, click.
男子と思われたのは間違いでなく〔個人史4〕
ごきげんよう、自宅近所に中華料理店があるのでいい時間にいい感じのいい匂いがしてきて強まる空腹感が悩ましいおじさんです。
前回はおじさんの成長過程においての髪型と服装という「社会的性(表現する性)」に関わる部分についてお話ししました。おじさんは幼い頃から女の子には向いていない子だったよね、て感じの。
今回は前回に同じくおじさんの「社会的性」に関わるお話ですが、今度は「周囲がおじさんに対して見るあるいは求める性」のお話です。
女の子だから/女の子なのに
ものごころついた頃から「自分は女の子ではない」という意識があったおじさん。しかし他者によって女の子に分類されてしまいます。幼稚園に通うようになれば「女の子はこっちに並びなさい」とそちらへ連れて行かれます。おじさんが幼稚園やら学校に通っていた頃は名簿も男女別で、女子側に名前が入っています。
そうやって区分されるたびに「こっちじゃないよなー」と思いつつも特に抗議もできずに、おじさんは幼少期を過ごします。それは小学校に通うようになっても続きます。
これに関しては、おじさんが学生の間はずっと続くのですね。教育現場で男女混合名簿が採用されるのは2000年以降、おじさんが学生でなくなってから10年以上経ってからのことです。混合されてもおじさんが感じていた違和感というものは解消されなかったようには思うんですけども。
入学式前にスカートを泣いて厭がる事件を起こしたおじさんですが、それ以降は性別カンケーで困ることは特にありませんでした。小学校は私服通学でしたし、家族は女の子らしくないおじさんを咎めることもなく、学校でもおじさんの社会的性(性表現≒服装の性)に異議を唱える人はなかったからです。
全体的にぼんやりと生きていたせいもありますが、「強烈に厭だったこと」というのは特にないまま学生時代は終わります。
性表現への揶揄
ときには「オトコオンナ」だとか言われることは確かにありましたが、おじさんはそれを特に厭だとは思いませんでした。それに、学年が上がるにつれてそういったことを言われる頻度はぐんぐん下がっていきました。
というのも、おじさんはおとなしい生徒でしたが、なぜかおじさんを怖がる同級生は割りと多かったからです。怖いというか、とにかく理詰めで正論しか言わない子供だったので、同級生に(そして一部の大人に)とっては「あいつに何か言うと却って手間がかかる」というめんどくさい奴だったのです。
さて「オトコオンナ」という揶揄は、おじさんは女性として社会(たとえば学校)に登録されていて、名簿も女性側で、名前も女性名で、だから周囲の人はおじさんを一応女性として認識しているというのに、おじさん自身は女性としての表象を何ら持たず、むしろ男性の表象や印象を持っていて、それを周囲の人が認めていた、ということの表れなんですよね。長い一文になっちゃった。ややこしくてごめんね。
カンタンに言うと、
- 周囲の人はおじさんを女の子だと聞いてるしそう思っている。
- なのにおじさんは男の子っぽい姿や行動をする。
- だから周囲の人はおじさんを「男の子みたいだ」と思っていた。
- そのため「女の子なのに男の子っぽい人」ということを揶揄する言葉としておじさんに対して「オトコオンナ」という言葉を発した
という訳です。わかりやすくなったかな?
つまり、周囲の人はおじさんの「登録上の性別」に拘わらず「実際におじさんから感じる性別」を男性と感じていた、ということで、おじさん自身はそれを「自分のほんとうの性別を認めてもらえた」ように思っていたのです。
また、街なかで見知らぬ人に「お兄ちゃん」と呼び止められることもしばしばありました。ときにはセーラー服を着ているおじさんを捕まえてそう呼ぶ人もいました。これも「間違えられた」のではなく、自分の本質を見抜く人がいるのだと考えていました。
セーラー服を着ていてさえ「お兄ちゃん」と呼ばれるくらいですから、公共のトイレで女子用を使おうものなら非常に怪訝な、胡乱な目で見られること必至で、中にはおじさんを二度見三度見する人もいたのでいたたまれなくて、二十歳になるいくらか前からは男性用トイレを使うことにしていました。こちらは何の問題もなく。
つまり、こうです。
おじさんの出生時に判定された性別を知っている人はおじさんを、あくまで「女の子」として扱おうとして、中には揶揄する人もいたけれど、知らない人たちの間ではむしろ男性として行動した方が生活しやすかった(そうしないとスムースな生活ができなかった)。
生活が男性寄りになってきたのは1980年代の終わり頃で、国内で「性同一性障碍」という言葉が知られるようになるまではあと10年近く必要です。この頃のおじさんはトランスジェンダーだとか性同一性障碍の概念をまったく知らないのですが、知ろうと知るまいと、こうした「男性としての生活」はおじさんにとって必要なものとなっていったのです。
だから、この世界にトランスジェンダーや性同一性障碍の概念がなかったとしても、日本で性同一性障碍の治療がはじまって多数の人々がそれを知るということがなかったとしても、時期は遅くなったかもしれないけれど、いずれおじさんは男性としての生活に移行していたのだろうなあ。だって女性として生活する方が不都合がたくさんあったのだもの。
社会を構成する人たちが思う性
「自分が自分であること」を妨害してくる人というのは案外いないものですが、「自分が標榜しているもの」についてとやかく言う人というのはものすごく多いです。
なぜだか「自分が思っている『当たり前』から外れていること」を許せない人はとても多くて、トランスジェンダーやら性同一性障碍やらの人は殊に「表現する性」についてはうんざりするほど他者の意見を聞かされる場面が多いものです。
今回の記事はそういったものの話題でしたが、今回だけで収まりきっていないので、次回も同じテーマでお話しさせて頂く予定としましょう。社会は当たり前に生きない人に厳しいけれど、おじさんは当たり前……と言うか、自分ではない人の思い通りになるのは好きじゃないんだな。
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髪型とセーラー服〔個人史3〕
ごきげんよう、知らない土地へ行くときは必ず前もってGoogleMapで道順を確認した上で文字地図を作るおじさんです。
大河浪漫おじさんの個人史、長々と続きます。前回でようやく小学校に入学したおじさんは、入学式のために親が用意した「少女らしい」服装を泣いて厭がったために、それ以降は少女らしい服を着けることを強要されることがなくなりました。
さて、髪型についてはどうだったでしょうか。今回はそこからお話しして参りましょう。
髪の長さ
ものごころつく前のおじさんは、腰まで髪が長くて「お人形さんみたいにかわいかった」と亡父がときどき言っていました。しかし、ほかにそのようなことを言う者がいなかったし、おじさんもその頃の記憶はないし、事実かどうかわかりません。
ものごころついたときから中学校を卒業するまで、おじさんはだいたいおかっぱ頭でした。いま風に言うとショートボブです。前髪ぱっつん。おじさんが好んでそうしていたのではなく、ものごころついたとき既にこの髪型で、変える必要を感じなかったのでそのまま維持していました。
しかし一度だけ、長く伸ばしたことがあります。小学校の5年生のときです。
おじさんには8歳年長の姉がいます。その姉が、ずっとショートカットのおじさんを一瞥して、何を思ったのか「一遍、長く伸ばしてみな、5000円あげるから」などと言い出したのです。
長髪はうっとうしくて、おじさんは正直のところ好きではなかったのですが、お金をもらえるのなら、と伸ばしはじめました。意地汚い&ノンポリシー。
当初は「腰の辺りまで」と言っていましたので、その長さまで伸ばすつもりでいたのですが、毛先が肩についてくるんとまるくなる頃に姉が言ったのです。
「もう切っていいよ」
5000円もくれました。それきり姉は「髪を伸ばせ」というようなことを一切言わなくなりました。よっぽど似合っていなかったのだと思います。
似たようなことは、この12年後にも起こります。おじさん23歳のとき。もういい年頃なのに娘さんらしくならないおじさんを心配したのか、母が「お金あげるからパーマでもかけておいで」と言い出しました。この場合の「お金」は美容院の料金です。
じゃあ行ってこよう、と次の休日に早速、美容院に出掛けます。その頃からおじさんは理髪店を利用していて美容院には馴染みがないので、母の行きつけの店舗を選びます。
予約もなしに飛び込みで行って、特に注文もなく「いい感じにしてください」というふわっとしたオーダー。というのも、美容院を利用したことがないので美容院ではどんなことができて、何をどんな風に指定すればいいのかがわからなかったからです。
餅は餅屋、わからないことはプロに任せよう。そうして鏡の前にすわって3時間。くるくるふわふわした髪型になりました。鏡の中の自分を見て、おじさんは「林家三平師匠(初代)か」と思いました。
帰宅して母に声をかけると、母はおじさんを一目見て「んー」と言ったきりでした。それきり母はおじさんの髪型について口を出すことが一切なくなりました。よっぽど似合っていなかったのだと思います。
という訳で、おじさんはショートボブからベリーショートへの変遷はあったものの、特におしゃれをするでもなく、ただ「襟足に髪が触れるのが不快」というだけの理由で、一ト月に一度の頻度で理髪店に通っていたのでした。
寝るときに枕を使うでしょ? 頭の下に枕を敷いたときに首周辺に髪の毛が触れるのが厭だったの。だからずっと刈り上げてもらってたなあ。
セーラー服を着る
おじさんが通った中学校と高校は、どちらも制服がセーラー服でした。小学校入学時にごねて以来おじさんはスカートを一切はかない子だったので、小学校卒業が近づいてくるとおじさん本人よりも同級生たちが「おじさんは中学校行ったらスカートはくの?」と気にするようになりました。
おじさん自身、スカートを回避できないかと考えなかった訳ではありません。入学前にもらった中学校校則の服装の項を読んでみると、「女子の制服については、場合によってはモンペも可」と書いてありました。
知ってますか、「モンペ」。モンスターペアレントのことではありません。
モンペというのは、袴のようなズボンのような、女性用の下衣です。第二次大戦中に国によって奨励されて普及したものですが、おじさんの中学校入学の頃は戦後38年も経過していて、モンペをはいている人なんて既に見かけなくなっていました。
「いつの時代の校則か」などと言われていましたが、校則に記されている以上はモンペも選択肢か、とおじさんは刹那考えました。しかし。
制服って、制服専門の業者に仕立ててもらいますよね。そのためには事前に採寸などしてもらわなくてはなりません。おじさんはその採寸に母に連れられて行ったのですが、そのときの母が、とてもうれしそうな楽しそうな様子だったことがとても印象に残っています。
おじさんの父はその頃まだ存命中でしたが、何かと病気を名目に働かない人でした。だから母がおじさんや姉2人(計3人)を、昼も夜も働いて、その上で家事もして、いつ眠っているんだろうという生活をしながら養ってくれていたのです。
そうして稼いだお金で仕立ててくれるセーラー服を、厭だなんてとても言えません。かくして、おじさんは中学校の入学式でセーラー服デビューをすることになるのです。入学式当日、中学校の玄関で同級生に「スカートはいてる!」と指を差されたのも愉快な思い出です。
あんまり乗り気でなかったセーラー服ですが、1学期が終わる頃にはすっかり慣れてしまって、特に不都合はありませんでした。
おじさんはもともと着るものに頓着のない人でしたし、毎日同じものを着ていても誰も何も言わないし、校則に沿って着ている限り誰にも口を出されないという面倒のない服だということで、便利なものとさえ思っていました。冠婚葬祭のどれにも着ていけるし。
それに、ネイティブ男性として生まれていたらおそらく着ることがなかったものを着る経験ができたので、得をしたような気さえしています。詰襟の学生服を着る機会もあったし、学校の制服については悔いも厭な思い出もありません。
こういうところが「当事者の中の多数派」とおじさんとの相違点です。当事者の間の「よくある話」で言えば、「望まない制服を着なければならないことが苦痛だった」ということになるようです。どんなことでもそうですが、「多くの人がそうだけど、みんながみんなそうじゃない」てことですな。
求めるより求められるものが
学校という社会の中で過ごすことでおじさんは、ぼんやりしていた性別違和を次第に強く感じるようになっていきます。自認する性と社会から求められる性の間にある「ずれ」や自分に備わっていないものを周囲から求められる苦痛など、当時感じていたものについて、次回はお話ししてみようと思います。
ぜひ次回もご期待いただきたい。たい。
▼クリックしておじさんを踊らせよう。
幼少期に直面する性〔個人史2〕
ごきげんよう、鶏胸肉だけ食べて生活したいおじさんです。脂がないスッカスカの鶏肉大好き。
おじさんの個人史をお話ししています。前回はじまったばかりなので、まだまだ御幼少の砌のお話です。性同一性障碍の診断に関わる個人史としてはこの辺りの話が割りと重要になるみたいですね。
性別とかジェンダーとかの概念をまだ理解していない時期に、自分の性別をどのように考えていたか。おじさんの 思い出話 個人史においても、この辺りに経験したできごとは後々に影響しているようです。
幼馴染みと特撮ヒーロー
おじさんには幼馴染みがいました。ものごころついてから小学校に入学するまではほぼ彼とだけ遊んでいました。1歳年長の男の子です。ごくごく近所に住んでいて、家族ぐるみのお付き合いがありました。
おじさんの就学前には仮面ライダーの第1作やスーパー戦隊シリーズの第1作が放送されていて、おじさんはそういう番組をよく見ました。
この頃はテレビまんが(当時はアニメーションとは呼ばれていませんでした)と同じくらいたくさん特撮番組が放送されていました。『超人バロム・1』、『怪傑ライオン丸』、『仮面の忍者赤影』、『宇宙鉄人キョーダイン』などなど。たいていが「男の子向け」の番組でした。
こういうものを見て、「ごっこ遊び」をする訳です。いまにして思えば、結構運動量が多い遊びではなかったかしら。
他方、「女の子向け」の番組を見なかった訳ではありません。女の子向けのテレビまんがもたくさん放送されていました。『エースをねらえ!』、『魔法使いチャッピー』、『ミラクル少女リミットちゃん』、『魔女っ子メグちゃん』、『ラ・セーヌの星』などなどなど。
つまり、男児向け女児向けにかかわらず、アニメ・特撮は洩らさず見ていたという訳で、おじさんのヲタク気質は既にこの頃からあったのですな。しかし、なぜかごっこ遊びは男の子向け作品に限られていたのでした。おもしろい現象です。
幼馴染みの、仮にTくんとしましょう、彼が女の子向け作品を知らなかったという訳でもありません。就学前から小学校高学年くらいまでは、多くの人は無差別に子供向け番組を見るようですから。
Tくんと遊んでいたから遊びが男の子型に定まっていったのでは?と考える人もいるかもしれません。しかし、どちらかというとおじさんよりもTくんの方がおとなしく、ままごとなども好む子供で、おじさんのままごとこそ「お付き合い」でやっていたものだったのです。自分から「今日はままごとしよう」と発案した記憶は、おじさんにはありません。
おじさんが小学校に入学する頃まで、Tくんとの特撮ヒーローごっこは続きました。それ以降はあまりそういった遊びをしなくなったのですが、それはその頃にTくんが遠方に引っ越してしまったからです。一緒に遊ぶ相手がなくなったのです。
ちんちんへの憧憬
男の子にはちんちんがあって、自分にはない。これを認識したのは、Tくんを通してでした。就学前児童ですから、一緒に風呂に入ることもあったのです。そうすると、身体のかたちの違いが、どうしてもわかります。
ある風呂上がりに、Tくんが素っ裸のまま畳にすわり込んで股間をいじっていたことがありました。いわゆる玉袋の中で玉を右に左に移動させて遊んでいたのです。それを何となく見ているとTくんのお父さんがおじさんに訊ねました。
「おじさんもそんなのほしいか?」
「そんなの」というのは金玉とちんちんのセットのことです。これはおじさんが3歳だか4歳だかのときのこと。このときはじめておじさんは「自分の身体にはちんちんがない」ということと、「自分がちんちんをほしいと思っている」ことを意識したのでした。
それ以来ずっと自分の身体にちんちんがあることを望んでいて、やがて「女の子とされている人にはちんちんがないけれど、自分は特別な体質で(あるいは特殊な種族で)、成長に連れて外性器が変化してちんちんになるのでは」などと中二病的なことを中二になるよりもずっと早くに考えるようになりました。
「ドラゴニュート」を知っていますか?
ファンタジーの世界の住人です。竜と人間のハーフのような姿の生きもので、「いまは半獣半人だが、何れ自分は完全なドラゴンになる」と信じ続けている限り、生命が尽きることがないのだそうです。
そんな風な感じで、信じ続けていれば自分はいつか男性の身体になれるのではないか。それは空想だったか妄想だったかわかりませんが、その頃のおじさんはそんな風なことを考えていたのでした。
泣いてごねた記念撮影
誰にとっても小学校入学はひとつの大きなイベントでしょう。おじさんの入学時もちょっとした事件でした。
一定の年代以上の、出生時に判定された性とは異なる性自認を持つ人の多くが経験している「ランドセルの色」問題。そして服装問題。ご多分に洩れずおじさんも、ぶち当たっております。
おじさんが小学校進学を意識するよりも早く、ランドセルは我が家にやってきました。つやつやとした赤いランドセル。立派な鞄です。でもやっぱりおじさんは、「黒の方がかっこいいなあ」と思ったのです。1年年長のTくんが背負っていたものを先に見ていたからです。
しかしそれはさほど大きな問題ではありませんでした。おじさんは自分ちがビンボーで、ビンボーの子は親にお金がかかるお願いをしてはいけないのだと既に知っていたので、諦めがついたのです。
それよりも服です。それ以前にもおじさんは「女の子っぽい服」を買い与えられたものの、着るのを厭がって泣いて抵抗して親のみならず親戚連中までを困らせたことがありました。そのときは「女の子向けデザインのパンツルック」だったのですが、入学式用に用意された服は、スカートとブレザーのセットだったのです。
入学式の数日前に、自宅で着て記念撮影をしておこうとしたのですが、そのときも泣いて厭がりました。いま振り返ってみると、なぜそんなに厭だったのだろうと思うのですが、当時はとにかく絶対にスカートをはきたくなかったのです。
紺色のブレザーとプリーツスカート、赤いエナメルの靴。絵に描いたような女の子の新一年生。親はきっとにこやかな晴れ姿を撮影したかったのだと思います。それをずいぶん手こずらせました。それでも最終的には、泣き顔ながら撮影は行われたのでした。
入学式も同じ格好で出席しました。そのときの写真が先日発掘されましたので、掲載しておきましょう。
口数が少なくて無愛想な子供でしたが、周りの人が愛想よくしてくれるので、毎年友達はできました。
入学時に散々泣いてごねたので、それ以降、母はおじさんにスカートを買い与えることがありませんでした。無駄なことは端からしない親です。
服装とか髪型とか
そのような次第で、いわゆる「女の子らしい」服装というのはそれ以降強要されることがなく、母が用意するおじさんの服はトップスはトレーナー、ボトムスはジーンズに定まり、特におしゃれに関心がないおじさんは与えられたものをそのまま着ていました。
毎日同じ服装で「たまには違う服も着ろよ」と思っていた級友などもいたかもしれませんが、パタリロ・ド・マリネール8世殿下と同じで、同じかたちで同じ色の服を何枚も持っていたので、おじさんは毎日着替えているけど毎日同じ恰好だったのです。
それが恥ずかしいとかそんなことはちっとも思わなかったので、その点は親は楽だったんじゃないかと思います。
髪型については、これはまた次回のお話としましょう。次回もよろしく!
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おじさん、ものごころつく〔個人史1〕
ごきげんよう、数年振りに写真に写って自分の身幅のでかさに改めて驚くおじさんです。
▲(身体が)幅広いおじさん
前回までは性別適合手術に関係がない手術のお話をいくつかしていました。切ったり貼ったりつついたり、おじさんの身体はいろいろいじられています。その都度大変だけど、そのたびにそれまでやったことがなかったことを経験できているのが楽しいです。
今回からは、そういったことも含めたおじさんの個人史をお話ししていこうと思います。性別適合手術に至る経緯も含みます。だから、「性別適合手術や性同一性障害にカンケーない話はつまらん」と思っていたみなさんにも、またお読み頂ければと思います。
おじさんも割りと長く生きてますので、長いシリーズになるかもしれませんが、ぼちぼちとお話しして参りましょう。のんびりお付き合いくださいな。
「個人史」って何だ?
まずは「個人史」って何だ、というお話を序段としてしておきましょう。
個人史というのは、別の言い方をすると「自分史」です。生まれてからこれまでの個人に関する歴史を振り返るってやつですな。ちょっとした地位やお金がある人が晩年になると本のかたちにして残しちゃおうとするアレです。
性同一性障碍の診断への過程も、担当医への個人史の開示からはじまります。幼い頃の自分はどんな子でどんなことを考えていたかなんてことを、性別やらジェンダーやらに関係するところを中心に話します。
口頭で話すのは時間がかかるので、診察に際して予め書面にしておいて、それを担当医に渡す人もいます。これだと医師が手隙の時間に読んでおけるので、診察の時間を使わずに伝えることができます。おじさんはこの方法を取りました。
おじさんはもともと口頭でのコミュニケーションが下手で、文章を書いたり読んだりの方が内容を把握しやすいタイプなので、実際に会ったり電話したりよりもメールや手紙を使っての連絡を常に選択します。だから書面の方が都合がよかったのです。
織田信長が死に際に舞ったという「敦盛」の謡によれば「人生五十年」。人生を1回終わっちゃったおじさんが過ごしてきたのはどんな人生だったのか。全部は到底無理なので(おじさんも憶えてない)、要所を摘まみながらお話ししていきますね。
世界の国よこんにちは
おじさんが生まれたのは1970年です。日本中が沸いた大阪万博が開催された年ですね。おじさんはその会期中に生まれました。三波春夫先生がお歌いになる万博のテーマ曲『世界の国からこんにちは』が巷に流れ、日本中の人々が未来に想いを馳せていた、そんな時代です。
「まだ生まれてなかったよ」という若いみなさんは、浦沢直樹さんの『20世紀少年』という漫画の最初の方を読んでみると、時代の雰囲気がわかるかもしれません。
主人公・ケンヂはおじさんより10歳くらい年長なのかな? 万博に行きたいけど行けなかった子供の1人です。途中から主人公はケンヂから娘のカンナに変わっちゃったけどね。
あるいは、アニメ『クレヨンしんちゃん』劇場版の1作、『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』。万博の頃に未来を夢見ていた、楽しい時代を過ごしていた大人たちが、現代を壊して「あの頃」を再来させようとするお話です。
これは作中で「大阪万博」とは明言されてはいないのですが、観客がおそらくそのように共通認識するであろう設定や舞台装置がたくさん仕掛けられています。
そんな風に、作品に描かれたりモチーフにされたりがたびたびの時代に、おじさんは生まれました。
▲ 一度は肉眼で見ておくべき造形物、太陽の塔
「当時の誰もが万博に行きたかった」というのは誇張ではなく、おじさんの家族も千載一遇の機会を得て会場に赴いています。おじさんを産んで2週間ほどしか経っていない母までもが(生まれたてのおじさんを置いて)行ったのでした。
余談になりますが、ポルノグラフィティのデビュー曲『アポロ』の歌い出しにこういう一節がありますね。
僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう
アポロ11号は月に行ったっていうのに(作詞:ハルイチ)
アポロ11号が月面着陸に成功したのは、実はおじさんが生まれる前年の1969年のことです。だからおじさんから見ると「ずっとずっと前」ではないんだなあ。ちょっと前。
みんなが生まれてくるずっとずっと前には
たいていの人がそうなのだと思いますが、おじさんには生まれた頃の記憶は残っていません。おじさんが持っている最も古い記憶は、1973年4月のことです。
その日はお天気がよくて、壊れたカメラをおもちゃとして使いながら、自宅の中庭でおじさんは遊んでいて、母親や近所のおばさんに見守られていました。みなさんは壊れた時計などの壊れた機械をおもちゃとして与えられたことはありませんか?
おじさんの世代はそういうことがよくあって、既に壊れているものなので気兼ねすることなく分解なんかしてみて、それによって機械の構造や仕組みを知ったものでした。で、分解するとたいていもと通りには戻せないのな。
そのときも、シャッターが「カシャッ」と音を立てるのがおもしろかったおじさんはカメラマンを気取っていろいろ構えてカメラのシャッターを切って遊んでいたのですな。その中で「ちーちゃんは明日から3歳やな」と母親がおじさんに言ったことを憶えています。誕生日の前日のことだったのですね。
だから、気候や服装を憶えていて判断したのではなく、誕生日の前日ということから「4月」と判断しています。おじさん4月某日生まれなので。これは記憶ではなく後々の判断です。
しかし、母がおじさんに言った言葉ははっきりと思い出せます。2歳最後の日の記憶が、おじさんの最も古い記憶です。そしてこのとき既に、おじさんは「自分は女の子ではないな」と感じていました。理由はありません。
みなさんは現在、「自分が自分である」という確信を持っておいでだと思います。たったいま自分自身が認識している自分というものが、実は他人なのかもしれない、という不安を持っている人は、ほんとうに僅かではないでしょうか。
では、なぜ「自分が自分である」という認識を持っているのでしょうか。読者のみなさんは、ご自身のその認識について説明できますか?
あるいは、自分の性別についても、なぜ自分がその性だと判断・認識しているのか、他者に対して明確に説明できますか?
これ、なかなか難しいと思います。もしかしたら、これまでそんなこと考えたことがなかった、という人も多いのではないでしょうか。
ものごころついた当日のおじさんも、おそらくそういうことだったんだと思います。
ただ、このときはまだ「女の子ではないな」という意識はあったものの「自分は男性である」という確固たる意識があった訳ではないです。ま、たいていの幼児にはそういった意識はまだないでしょうな。
長篇大河ロマンの予感
おじさん、2020年の誕生日で生誕50周年を迎えたんですが(50周年記念のバースデーライブツアーは残念ながら中止)今回の記事はまだ3歳時点のお話です。あとたっぷり40年分はお話しすることがあるので、「おじさんの個人史」シリーズはすげー長篇になりそうな感じです。
「おっさんの生育歴なんかつまらんから別の話をしろ」とか「それより○○の話をしろ」とか、ご希望がございましたら、おじさんのTwitterにDMを投げ込んでおいてください。
直接のお返事はできませんが、ご意見は大切に拝読します。おじさんへの窓口は現在のところここだけなので、ご意見はこちらまで。リプライをいただいてもお返事できません。勝手ながらご了承くださいませね。
▼ヨムヨム。クリッククリック。
松本市でまぶたを切る〔2〕
ごきげんよう、筋力を鍛えてもストレスと戦うときには特に役に立たないことを実感しているおじさんです。
さて、今回も宣伝からです。
おじさんの2本目の小説がKindleで販売されています。『あの日、階段の向こうに見た大きな』という400字詰原稿用紙にして40枚くらいの短いお話です。どうぞよろしく。
あの日、階段の向こうに見た大きな | 南波創海 | Amazon
さて、前回は、タイでの性別適合手術(1回め)から帰国した後、眼瞼下垂を診てもらうために信州・松本市まで出掛けたおじさんは、約半年後に手術を受けることになりました。というお話でしたね。
時は2006年。この頃のおじさんは割りと元気だったので、タイ(飛行機で片道5時間)でも松本市(高速バスで片道6時間)でもどんどん行っちゃったのです。後々元気でなくなる時期があるのですが、それはまた別のお話としましょう。
今回は、手術のために松本市を再訪したところからお話ししますね。
病室は個室
おじさんが眼瞼下垂の手術をしてもらうために松本市を訪れたのは、8月の半ば。盆休みが明けた頃です。病院に朝早くに来るようにと指示されたのですが、その時間に到着できる高速バスがなかったので、病院の近くにビジネスホテルを取って前泊しました。
手術を受ける病院は信州大学医学部附属病院とは違う病院です。執刀医が出張してきて、別の病院で手術を行います。こういうことはよくあるみたいですね。少し前にお話しした、おじさんの逆まつげの手術。あれも診断を受けたのとは違う病院で施術してもらったのでした。
当時、おじさんは既に男性の姿で男性として生活していましたが、戸籍上はまだ世を忍ぶ仮の女性でした。同室者や入院病棟職員らが混乱を来さないようにと、その旨を予め担当医であるM医師に申し出ていたので、病室は個室を与えられました。
個室料金はもちろん支払う訳ですけども、もともとおじさんは自分の周囲に人がいると、たとえ親しい人でも疲れてしまう性質なので、一人で気兼ねないのは有難いものです。
手術は局所麻酔
荷物など整えて、術衣に着替えますと、早速手術の用意です。まず目の周囲に粘着テープを貼ります。これは予備麻酔です。
眼瞼下垂の手術は局所麻酔で行います。これには理由があるのですが、後でね。麻酔は注射で行います。眼瞼下垂の手術ですから、眼瞼、つまり目蓋の周辺に麻酔注射をします。読者のみなさんにも想像がついたかと思いますが、すっごく痛いです。
すっごく痛いので、その痛みを緩和するための麻酔が、最初に目に貼るテープです。麻酔のための麻酔をする訳です。この麻酔のための麻酔のおかげで麻酔注射が痛くなくなるかと言うと、そんな訳ねーべ。痛いのは痛いよ。めちゃくちゃには痛くない、程度です。
局所麻酔が効きづらい体質の上に、普段から向精神薬など服用しているおじさんは、既に手術中に麻酔が効かないという地獄のような経験をしているので、予めM医師にその旨を伝えていました。「服薬を控えなくても大丈夫ですか」と何度も訊ねました。
そのたびにM医師は「酒を飲まないなら大丈夫」と繰り返しました。おじさんはまったくの下戸で、普段から一滴も飲みません。だから普段通りに服薬して、手術に臨みました。
手術中に問答
眼瞼下垂は上の目蓋にある眼瞼挙筋という筋肉が伸びてしまって、目蓋がしっかりと開けられない状態。だから伸びた筋肉を少し切って、短く詰めます。スカートの腰周りを詰めてワンサイズ小さくするみたいな。
だから、上の目蓋を切開します。目の周辺にした麻酔注射はさすがにしっかり効いていて、切開は痛くありません。「痛くなってきたら教えてください」という歯医者さん的なことも言ってくれましたので、ある程度安心して手術台の上におりました。
でもね、見えているものも見えていないものも、手術のときって「切ります」って教えてくれるのね。ちょっと怖い。
手術中は目を閉じています。目を閉じた状態で目蓋を切開して、その中身をごにょごにょしてくれるのですが、途中で言われるんです。
「ちょっと目を開けて」
切開してから、縫合するまでの間に言われます。目蓋切れてる状態で目を開けるんですよ。おじさんビビりました。M医師が仰るには「どれくらい詰めれば(どれくらい切除すれば)いいのか確認するため」。目を開けたときの目蓋の位置を確かめるんですね。
これをやらなければならないので、局所麻酔なのです。全身麻酔で眠ってしまうと、手術の途中で目を開けたり閉じたりできませんから。でも切開された目蓋動かすの怖えーちょー怖えー。
キレた
そんな感じで、ときどき(おじさんが)ビビりながらも手術は滞りなく進んでいったのですが、少しずつ魔は忍び寄ってきていたのです。
痛くなってきた。
多少の痛みは我慢しなくちゃいけないよね。切ってるんだから痛いのは当たり前だよね。なんて思うのですが、麻酔を追加してもらっても効きはじめるまでに時間がかかりますから、早めに申告しておかないと激痛に見舞われかねません。
だからおじさんは言いました。「先生、痛いです」。すると執刀中のM医師はちょっと慌てた声で仰いました。
「あと縫うだけだから待って!」
縫うのが痛いんでしょ!
針で何度も刺すんでしょ!
目蓋だって既に刃物で切り開かれてるでしょ!
麻酔は追加してもらえなくて、おじさんは両方の手の指を全開にして耐えました。限界までパーにした手の指の、第1関節だけが曲がっている状態を想像してください。このときのおじさんの手はそんな状態です。
麻酔が切れてくるので、痛みは増してきます。痛いので涙が出てきます。すると。
「泣かないで! 涙が傷に入るとよくないから」
痛えんだよ。痛いから勝手に涙が出てくるんだよ。泣いちゃいけないなら麻酔を追加しておくれよ。と、言いたいけど、言えない。痛くて歯を食いしばっているので、ものも言えません。
最後にちょっとだけ、麻酔を追加してくれました。あんまり涙が溢れてきたからでしょうか。
そんな強烈な痛みですから、解放されると「ほっとする」を通り越してぼんやりしてしまいます。すっかり疲労困憊です。そんな術後のおじさんに、M医師は言うのです。
「あなた、お酒飲むでしょ?」
飲まねーよ。酒は飲まないって何度言ったかしらん。酒は飲まないけど薬は服んでるよって話をしつこくしたよね? 以前、麻酔が効かなくてひどい目に遭ったって話したよね?
と問い詰めたい気持ちはあったけれど、ぼんやりぐったりしているので口も聞けません。とにかく、手術は終わりました。
一泊して退院
術日は入院して、翌日の午後退院です。傷というものはたいてい腫れるものですが、顔のパーツが腫れていると目立ってしまいます。できるだけ腫れを早く引かせるために、病院では氷水を用意してくれました。それにガーゼを浸して絞り、目の上に乗せてくださいとのこと。
左右両眼とも手術を受けたので両目を冷やします。起きている限り冷やし続けました。目にガーゼを乗せて冷やすということは、何も見ることができないということです。見えるものがないというのは存外つまらないものです。
翌日の午後には退院ですが、退院しても帰阪するバスが夜までありません。少しだけ松本城を観光して、おじさんは駅前のインターネットカフェに入りました。夏のまだまだ暑い時期だったのでシャワーを使わせてもらったのですが、そこでおじさんはびっくらこくのです。
シャワールームにある鏡を覗いて愕然。手術箇所は腫れよりも血が目立っております。縫合糸が血塗れで、それが乾いて褐色にこびりついていて、縫合糸も目立つし血も見えるし腫れてるし、かなりホラーです。そういえばサングラスを持参するようにって病院から言われてたっけ(持参してない)。
今日すれ違った人たちごめんねー、とか思ったけど、誰もおじさんの顔なんか凝視してないよな、とも思ったり。かさぶたが取れてしまうまではずっとホラー顔です。お出掛けできないじゃん、と思う人もいるのでしょうが、おじさんは気になりません。だっておじさんからは見えないから。
帰郷してその後
縫合糸は抜糸の必要がないやつでした。だから、余程傷の具合が悪いというのでもなければ通院の必要もありません。しかしM医師は手術のでき具合を見たいから半年後に来て、と仰っていましたので、おじさんはさらに半年後にもう一度松本市を訪れます。また春頃ですね。
予後は良好で、特筆すべきこともなく、傷もきれいに治っています。M医師は形成外科医なので、審美的なできにもこだわって上手に形成してくれるお医者のようです。でも「こうした方がかわいいよね」的感覚で自分好みの目のかたちをつくってしまう傾向もあったようです。
で、みな一様に二重まぶたになってしまうのですな。おじさんはもともと一重で疲れたときだけ二重になってしまうタイプでしたが、手術を経て割りとはっきりとした二重になってしまいました。それがちょっと残念だったかな。おじさん自身は一重の方が好きなんです。
ちょっとだけ期待していたうつの軽減も、特にないままです。見違えるように視界が広くなった、ということもないし、結果としては二重になっただけ?
▼ぽちっとクリック推奨。
松本市でまぶたを切る〔1〕
ごきげんよう、真冬でも身体から湯気が出るほど汗っかきのおじさんです。
まず宣伝です。おじさんの2本目の小説がKindleで出ました。タイトルは『あの日、階段の向こうに見た大きな』。400字詰原稿用紙にして40枚程度の短いお話で350円とお安いですので、どうぞよろしく。
あの日、階段の向こうに見た大きな | 南波創海 | Amazon
さて。
性別適合手術の話が終わってから、ついでだって言うんで、おじさんがこれまで経験した性別適合手術以外の手術のお話をしています。2つだけかと思っていたら、もひとつ忘れてました。これもお話ししておきますね。何たってついでだから。
おしまいは眼瞼下睡のお話です。この手術こそひどいめに遭っているのに何で忘れたんだろう。
眼瞼下睡は形成外科の領域
「眼瞼下垂」って聞いたことありますか?
どんな疾患かと言うと、読んで字の如くまぶた(=眼瞼)が下に垂れてくるのです。「まぶた」をおじさんはいつも「目蓋」と書くのですが、「瞼」一字でも「まぶた」と読みます。むしろこちらの方がポピュラー。
目蓋は「眼瞼挙筋」という筋肉で持ち上げています。ところがこの眼瞼挙筋というのは加齢とともに伸びてきて、充分に目蓋を持ち上げられなくなることがあるんです。
このために、しっかりと目を開けていられなくて視野が狭くなるなど、日常生活に支障が出る場合は、眼瞼挙筋を一部切除して目を大きく開けられるようにする手術が必要になります。
おじさんはもともと目が細いのですが、視野が狭くて困るというほどでもありませんでした。しかし知人が眼瞼下垂の手術を受け、視界が開けた上に以前から悩まされていたうつ症状が明らかに改善されたと言うのです。うつ病とまでは行かないけれど、うつ傾向があったのですね。
知人が調べて行きついた話をもとに、さらに自分でも調べてみたところ、眼瞼下垂を原因としてうつ症状が出ることもあるとのこと。そのほか、筋緊張性頭痛・片頭痛・肩こり・パニック障碍などを引き起こすこともあるそうな。これらの症状というのはうつと併発しやすいですね。おじさんにもあります。
思い当たる人は、セロテープでもマスキングテープでも養生テープでもいいので、その類いのもので目蓋を額の方へ引っぱり上げて一時的にでも固定してみてください。目を大きく開けるようにね。しばらくその状態で生活してみて、思い当たる症状が改善されたら手術を検討してみてもいいかもしれません。
おじさんもやってみました。うつ症状については正直「?」という感じでしたが、視野が広くなるのは快適です。だからおじさんも、目蓋が下垂していることはしていたのでしょう。それに、全快はしなくても、多少でもうつが改善されたらいいなあ、という希望もどこかに抱いていたのだと思います。
いざ気軽に信州へ
眼瞼下垂の名医が信州大学医学部附属病院におられるというので、関西在住のおじさんは行ったんです、はるばる長野県松本市まで。その名医とは眼科ではなく、形成外科のお医者です。仮にM医師としましょう。
これを決意したときというのが、はじめてタイへ性別適合手術のために行って、帰国した辺りなんですな。飛行機で片道5時間のタイまで行ったんだから、長野県なんて遠くないでしょ。て感じで、ホイホイっと。
でも、地元から電車で大阪市内まで出て、そこから高速バスに乗って行ったんですが、片道7時間前後かかるんですな。タイより時間かかってるじゃん。しかも計3回行くことになるんですよ。初診・手術・予後診察のために。
はじめて松本市に言ったのは、春先でした。3月の終わり。夜行バスで朝早く着いて、病院へ行くまでの時間をネットカフェでつぶしました。信州の朝はひんやりしたなあ。
形成外科のM医師は眼瞼下垂について図を書いて説明してくださり、眼瞼下垂とうつの関わりについても話してくださいました。そして、乳児用の耳で測る体温計によく似た機械をおじさんの耳に用いて、「鼓膜の緊張度」というものを測ってくれました。
▲医者の字というのは例外なく読めないね。
計測値などは見せてもらえませんでしたが、M医師が仰るにはおじさんの緊張度は「戦場の兵士と同じくらい」だそうな。結構リラックスしているつもりだったんだけどな……?
つまり、おじさんのリラックスしている(つもりの)状態が、一般的に見ると過度の緊張状態だということです。極限の緊張状態がが平常なのだから、そりゃあうつ病にもなるますわな。と、妙に納得したおじさんでした。
これも眼瞼下垂を解消することで緩和されるでしょう、というM医師の見立てで、そんなら手術しましょうと、この初診時に手術日を決めました。M医師の手術は人気のようで、予約が取れたのは8月。お盆明けです。
て訳で、一旦帰郷して、再度夏にやってくることになりました。夏の信州は心地よさそうです。
記録によるとこの年は2006年です。モーツァルト生誕250年、トリノ冬季五輪が開催された年で、荒川静香選手が金メダルを獲得した瞬間をおじさんは現地時間で見ていました。
トリノ五輪の翌月に信州大学医学部附属病院で初診、国際天文学連合が「冥王星は惑星じゃないことにします」と決める1週間ほど前に、おじさんは手術のため再度信州に赴くのです。
手術とその後については次回に。
性同一性障害関係のお話目当てで当ブログのお読みのみなさんはそろそろつまらなくなってきた頃かと思いますが、眼瞼下垂のお話の次はおじさんの生誕から性別適合手術に至るまでのお話をする予定でおりますから、も少しお待ちくださいな。
▼クリックするとおじさんが踊り出す(かもしれない)。
ひろうかんしゅこんかんちりこんかん〔2〕
ごきげんよう、通販などでいい感じの深さのダンボール箱が手に入ると「ねこにあげよう」と考えて、なかなか処分できないおじさんです。
性別適合手術以外におじさんが経験した手術のお話を前々回、前回として参りました。あっさり終わった手術というのがなかったおじさんです。いや、手術というものはたいていがそうなのかもしれません。
今回のお話は前回に引き続き、手根管症候群のお話です。手術は1時間半~2時間程度で終わり、手術が終わった途端に症状は治まりましたが、それで大団円という訳ではなかったのでした。
はみ出してたので
手根管症候群の手術は日帰りで、当日はそのまま鎮痛剤と抗生剤をもらって帰りました。帰宅後は早めに鎮痛剤を服んだので、麻酔が切れた後も痛みに悶絶ということもなく。3回程度3日置きくらいに通院しました。
診察ですることと言えば病状観察と消毒なのですが、おじさんの術創はなかなか閉じませんでした。切開した傷なんてたいてい3日もすればくっつきかけているものなのですが、おじさんの術創はぱっくり。縫合してあるから全開にはならないけど、傷の中がはっきり見えるくらいにはぱっくりです。
あんまりぱっくりだったので、術後初診察時におじさんは患部から目をそらしました。だって怖いもん。執刀医が鋏で何かを切るチョキチョキという音と、手のひらの一部がひっぱられる感覚があったので、傷の処置をしてくれたのは間違いなさそうです。
処置を終えた執刀医曰く、「はみ出してたので切っときました」。
はみ出してたって何?!
何がはみ出してたんですか先生!
はみ出していた何かの説明もなく傷口にハイドロコロイド絆創膏を貼ってまた包帯巻いて、処置はおしまい。でも、次の診察のときも傷ぱっくりのままだったんだよねえ。
3回目の通院で抜糸の予定だったのだけど、いつまでもぱっくりしているものだから術創もくっつきようがなくて、その後は週に1回の通院が続きます。
これって先生の縫合が甘かったんじゃないのー?なんて、まだ糸がついている傷を見ると思ったりします。ほどけてきた雑巾みたいに糸の端っこを引っぱったら傷口がきゅっと閉まるんじゃね?と思ってやってみようとしましたが、そんな訳なかった。
縫合糸ってね、皮膚にくっついちゃうの。だから引っぱっても布みたいにきゅっと絞れなくて、糸に一番近い皮膚が引っぱられるだけ。抜糸が「ぴっ」「ぴっ」て感じでまつげを抜かれるみたいに地味に痛いのはそういうことだったんだ。
濡らしてはいけないので
さてさて。
術創が塞がるまではぱっくりしている手は濡らしてはいけません。包帯ぐるぐる巻きだしね。そうすると手を洗うということはできないし、入浴はしてもいいけど手術した手は濡らさないようにしなければなりません。手術したのは右手、おじさんの利き手です。
手を洗えないので、包帯から出ている部分は汚れたらウェットティッシュなどで拭いて済ませないといけません。この方法では対処できる汚れにも限界がありますから、できるだけ汚れないように気をつけながら生活しなければなりません。利き手なので、余計に注意が必要です。
汚れることが予め予想される作業をするとき、たとえばインクジェットプリンタのインクを補充するとか、揚げものやおかしを食べるとか、そういうときはゴム手袋をつけました。
ゴム手袋と言っても洗剤などを使うときの厚手のものではなく、外科医が手術時に使うような、中身が透けて見えるような薄手のものです。100円ショップで10枚1袋くらいのものが買えます。
入浴時もこれを使いました。利き手を使わないことには顔も頭も身体も洗えないので、手袋をつけた上で、できるだけ手のひらに負荷がかからないように注意しつつ身体各所を洗います。
おじさんは真夏でもなければ湯舟に浸かりたい人なので湯にも入りましたが、右手の手首から先だけは湯から出して入りました。
手術をした時期というのが4月末辺りで、かなり暖かかったんですよね。おじさんはもともと長風呂の人で短くても30分はかかるんですが、このときは15分以内に風呂から出ていました。それ以上手袋をつけていると濡らしてはいけない手が汗で濡れてしまうので。
結局のところ、本来なら術後1週間くらいでできるはずだった抜糸まで、1箇月くらいかかってしまいました。傷が塞がった、というよりは、塞がらなかったけど開いている部分にも新しい皮膚ができた、という感じです。その分、手のひらが広くなったんじゃね?(ちょっとだけど)
風呂も大変だったけど、食事も大変でね。術創がくっついて抜糸を済ませるまでは箸を使うのも難しいので、スプーンで食べられるもの、片手で食べられるものを選んで食べていました。お粥とかパンとかね。
治ー癒っ治癒ちゅちゅ
夏のお嬢さん。昭和の人だけ気付いてくだされば結構です。
えー、切ったり継いだりの手術を受けるたびにおじさんは思うんですが、人間の身体ってすごいね。切開しても糸で開いた部分を寄せておけばくっつくんだもの。多少、隙間があっても塞がるんだもの。
手根管症候群の手術では手首と手のひらを切ったのですが、手首は実にスムースに治癒して予定通りに抜糸できたので、このブログを書くまで切ったことを忘れていました。痕もよーく見ないとわからないくらいです。
手のひらの傷痕も、手術をしたということを知っている人でなければ、ぱっと見たくらいでは気付かない程度です。じっくり見ると手相ではないと一見してわかる線があるので、怪我とか手術とかしたんだろなとわかるんじゃないかな。
それくらいの痕が残っているだけで、後遺症らしきものはありません。以前に腱鞘炎も経験があるので、仕事道具を見直して、手首周辺に負担がかかりそうなものを一新しました。
当時使っていたPC用キーボードはキートップが高かったので、高さを合わせるようにパームレストを置きました。マウスの下にもパームレスト付きのマウスパッドを敷き、マウスはトラックボールに変更しました。
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おじさんはマウスオペレーション時に肘を上げ気味で手掌でマウスを押さえるように使うくせがあったらしく、そのくせのために手首の腱が分厚くなってしまったのかもしれません。それを解消するのにトラックボールはてきめんに効果がありました。
何せ、トラックボールに手を置いたら動かす必要がないので、手首も安定しています。同時に利き腕側だけですが、アームレストも設置しました。アームレストに肘を置くようにすれば、肘が上がってしまうこともありません。
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これだけ揃えると、作業がかなり楽になりました。マウスに比べてトラックボールは高価ですが、使用感の快適なことを思えば、決して高くはありません。おすすすすめ。
手根管症候群の手術をしてから3年が経過、トラックボールを1台使いつぶしましたが、おじさんの右腕は元気です。
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ひろうかんしゅこんかんちりこんかん〔1〕
ごきげんよう、「どんな音楽を聴くんですか?」と訊ねられたら「モーツァルトから冠二郎さんまで」と答えるおじさんです。経由するのはQUEENとか光GENJIとかです(蛇行)。
さて、ただいまは性別適合手術の話は終わってしまったけど、ほかにも手術の経験があるのでついでにそのお話もしているところです。前回は逆まつげのお話でした。
今回はもうひとつの手術のお話、手根管症候群の手術についてお話ししますよ。
手根管症候群て何だ
まずは「手根管症候群」てーのは何かというお話をしておきましょう。「手根管症候群」と書いて「しゅこんかんしょうこうぐん」と読みます。
手首には正中神経という神経が通っているのですが、手根骨という骨と横手根靱帯とに囲まれたトンネルを通っています。このトンネルの名前が「手根管」です。
手根管の中を通っている正中神経が、横手根靱帯が何らかの原因で分厚くなるなどで圧迫されることがあります。そうすると、手指に痺れや痛みが出てきます。
おじさんも右手の中指を中心に痺れがあり、それが次第に強くなっていったのでした。炭酸水の中に手をつけているような痺れが常時手にあるようになったのです。それから次第に上腕や前腕に痛みが現れました。
おじさんはものを書く仕事をしていて、以前に腱鞘炎をやったことがあります。だから今回も腱鞘炎かなー、と思っていたのですが、整形外科で診てもらうと手根管症候群ということで、自宅近隣の病院のお医者によると「切らんと治らん」とのこと。
靱帯が分厚くなって正中神経を圧迫して手指が痺れているので、分厚くなった靱帯を薄く削って正中神経の圧迫を解消してやれば治るという訳です。
て訳で、自宅近隣の病院から総合病院の整形外科に紹介状を書いてもらって受診したところ「これで様子を見て」と、痺れやら痛みを取る注射というものを手首の内側という珍奇な場所に打たれました。
おじさん、膝に水がたまって水を抜くために膝の皿の横側に注射針を刺すということをしたことがあるんですが、それ以来の滅多な場所への針です。見た目もアレだし結構痛い。
でも、この注射効かなかったの。痺れも痛みもちっともなくならなくて、次回受診時にそのように担当医に訴えましたら、じゃ手術しよっか、とあっさり手術が決まりました。手術自体は簡単なもので日帰りでできるということで、手術日もすぐに決定。
やたらな痛みで身体も起きる
指定された日に病院へ行きまして、簡単に診察してもらって手術室へは歩いて行きます。手術台に上がって寝るまではどの手術も共通でございますな。
今回の手術は局所麻酔下で行います。これまでの経験でおじさんは局所麻酔が効きにくいことがわかっていますので、術前には「効きにくいので途中で切れないよう重ねて注意をお願いします」と何度かに渡って事前にお願いをしております。
さて、手術を受けるのは右手でございます。手術台の上で右腕を体幹に対して直角に伸ばしますと、上腕の辺りに術野が見えないようにカーテン様の仕切りを置いてくれます。しかし音だけ聞こえてくるのもなかなかにおそろしいものでございます。
手のひら全部と手首周辺を消毒液で拭います。カーテンで仕切られているのでその実際は目にすることができないまま、濡れたもので手首から先をなでまわされる感覚だけがあります。
乳房切除術のときもそうでしたが、カーテンで術野を隠してくれても、何をするのかということを一部教えてくれるんですよね。「はい、これから麻酔しますよ」とか。
その麻酔というのが注射によるものだったのですが、まず手首に。手のひらを上に向けた状態で、小指側の、手のひらとの境い辺りに。そしてもう1本、手のひらのど真ん中。
ど真ん中です。中指と薬指の間から真下に辿って、手のひらをきゅっと曲げると一番くぼむ辺り。手のひらの中心。
そこに針が刺さります。すげーーー痛いです。どれくらい痛いって、手術台に仰向けに寝ていた上半身があまりの痛みに勝手に起き上がってしまったほど。この手術で一番痛いのは麻酔注射でした。痛くないようにする注射が一番痛いとは、こはいかに。
それでね。
またご丁寧に「これから切りまーす」って教えてくれるのな。麻酔したから(効いていれば)痛くないはずだけど、おじさんは麻酔注射してから麻酔が効くまでに切開されて痛みに苛まれる2時間足らずというのを経験しておりますので、戦々恐々です。
手のひらさっくり
ヘラ状のものが手のひらを撫でる感覚があって、「あ、麻酔が効いてるんだ」と思いました。多分これがメスで切開している感触。痛くはないので、ある程度安心です。手術の最中に麻酔が切れたりしなければ。
しかし、手術中に麻酔が切れて(あるいはほとんど効かなくて)激痛に悶絶、という経験をおじさんは何度かしています。おっぱい切ったときとか、眼瞼下垂の手術したときとか。
あ、眼瞼下垂の話ってまだ少しもしたことがありませんね。手根管症候群の話が終わったら改めてお話ししましょう。このときも局所麻酔でひどいめに遭った。そんな訳で、安心はできません。
で、案の定、途中から痛くなってくるのね。
「あ、痛いなー」程度のときに、我慢しないで早めに訴えました。経験上、そうすべきことがわかっていたからです。ちょっとした痛みを感じはじめてから激痛に襲われるまで、その変化の時間は思いのほか短いのです。早めに言っとかないと、またひどいめに遭います。
「痛いです」と訴えると「もう?!」と驚く声。だから、だから言ったじゃないですか。局所麻酔が効きづらい体質だって念を押したじゃないですか。強めに麻酔かけますって言ってくれたじゃないですか。
またぞろ悲惨な経験になるのではという想像と覚悟を同時にしたおじさん。しかし今回はすぐに追加の麻酔をしてくれて、比較的穏やかに手術を終えることができたのでした。
注射だからちくっとしたけど。それから手のひらのいろいろを引っ張る感覚がしばらくあって、やがて手術は終わりました。全部で1時間半くらい?
包帯を巻かれて手術室を出ると、一ト月ほど続いた炭酸水に浸かっているような指先の痺れがすっかりなくなっていました。おお、すごい。
て訳で、痛みや痺れの症状がすっかり失せてめでたし、ではありますが、手根管症候群のお話はこれでおしまいではないのですな。手術の後の話もあります。またまた傷がなかなか塞がらなかったり。引き続き次回もよろしくお願いします。よ。
▼クリックでおじさんが救われる。
ほかにもある手術のお話
ごきげんよう、入浴+夕食のコンボを決めるとその後のやる気が失われてしまいがちなおじさんです。
性別適合手術の乳房切除術、おっぱいを切り取る手術にはじまった一連のおじさんの手術のお話が、前回の更新でようやくおしまいになりました。長かったですね。
これですべてのおじさんの手術話が終わったかと言うと、実はそうではなかったりします。これまでお話しした以外に、おじさんは2つの手術を受けています。ついでだからそのお話もしちゃいましょうね。
おじさんの手術の体験
おじさんの記憶に残っている最初の手術は、目の手術です。俗に言う「逆まつげ」というやつで、生まれつきだったのです。
「逆まつげ」というのは文字通りまつげが逆さに、つまり、まぶたから目の外側に向かって生えているはずのまつげが、目の内側に向かって生えていることで、そうすると眼球を傷つけてしまいます。診断名は「眼瞼内反」です。多分。
「多分」と頼りないのは、当時おじさんは小学1年生で、碌に症状や術式の説明をしてもらえなかったからです。お医者の説明は本人を通り過ぎて親に行ってしまうのですな。
自分では「逆まつげ」という俗名で呼ばれる病気だということ、まつげが眼球に向いて生えていて眼球が傷ついているということ、ものごころついた頃から近所の眼科医に通っていたというのに執刀医の初診で「何でこんなになるまで放っておいたんですか」と親が怒られた(眼球が傷だらけだったそうな)ということしか知らないんです。
という訳で、現在調べてみてこれに該当するんだろうな、というのが「眼瞼内反」なのです。
対して、直近の手術は実は尿道狭窄の手術ではなく、手首の手術です。手根管症候群と言って、手首の腱が圧迫されて痛くなっちゃうやつで、切開して治します。局所麻酔で手首を切るというスリリングな手術。
この2つの手術についても、憶えている限りにはなりますが、お話ししておきましょう。
逆まつげのお話
ものごころついた頃には祖母に手を引かれて眼科医に通院していました。祖母も眼科で診てもらっていたので、ついでっぽくもありましたが。
ものごころついた頃ですから、3歳ほどです。その頃既に「逆まつげ」という言葉を憶えていて、その治療のために通院しているのだということは把握していました。その治療の方法は「針+電気」でした。
目頭すぐそばに針を刺してですね、その針に電気を通してカッチカッチ言わせる機械があるんですよ。それで10分とか15分とか、それくらい電気でカチカチしていたのかな。通院は1週か2週に1回くらいだったかしら。
小学校1年生になるまで通院を続けていたのですが、秋口のある日、母親がおじさんを別の眼科に連れて行きました。おじさんが住んでいた街で一番という評判の眼科医です。後にこちらのご子息がそこそこ名の知れたミュージシャンだということを知るのですが、それはまた別のお話。
その街で一番の眼科医におじさんの母が「何でこんなになるまで……」って怒られまして、直ぐに手術が決まったのです。つまり、3歳から7歳まで続けた近所の眼科医への通院は、目頭に針を刺す治療は、ほぼ無駄だったということですな。
通っていた近所の眼科医というのが古くからある個人医で、お医者先生はひょろっとしたじーさんでした。「自分で自分を診なければならんのじゃないか」と揶揄されることもしばしばのじーさんでしたが、おじさんの祖母なんかはお互いが若い頃から診てもらってたんだろね。
手術は前日から入院して、時間が着たら術衣に着替えてストレッチャーに乗せられて麻酔。おそらく後に点滴とか吸気マスクとかつけて全身麻酔をしたのだろうけど、ストレッチャーの上で左右の腕に1本ずつ注射をして、2本目の注射針が腕から抜かれたのをおじさんは知らない。早々と眠ってしまったのですな。
目が覚めたら両目眼帯。何も見えんよ。やたら喉が……というか、例に洩れず口渇がひどいのですな。でも水は飲んでは駄目と言われて、ずいぶんグズりましたな。何しろまだ小学1年生でしたから。
6人ほどの大部屋に入院していて、近くのベッドにいたばーちゃんが「喉渇くけど我慢しよなー」っておじさんをあやそうとしてくれたり、ずいぶん愛想よくお世話くださったので、退院してからお礼の見舞いに行ったことを憶えています。
ばけものあつかい
入院は短くて済んで、3日くらいだったかな。水が飲めるようになってすぐに退院したように憶えています。でも、抜糸までは両目眼帯なので、学校へは行けなくて自宅療養でした。
逆まつげの手術って上瞼だけと思われがちですが、おじさんのまつげは左右上下全部逆まつげだったらしく、左右上下切ってるんです。だから両目とも眼帯。見たことありますか、両眼帯。
一見、両目が塞がれているんですが、実は眼帯の下でまばたきはできるし、隙間から見えるんですよ。それに、おじさんは生まれたのも実家で、生まれた瞬間からずっと住んでいる家ですから身体の感覚でだいたい歩きまわれてしまうんですね。家で過ごす分には何ら困りませんでした。
手術より抜糸が痛かった。当時は溶ける縫合糸がまだなくて、1本ずつバチンと切って、プチッと引き抜かれる訳ですが、糸と皮膚がくっついていて抜くのが痛いんですよ。それが縫った数だけ繰り返されます。
泣き叫んだりはしませんでしたが、痛いので涙が滲んできます。すると涙は術創によろしくないらしく、抜糸している医師に「泣いたらあかんよー」なんて言われたりしました。「あかんよー」ったって涙は勝手に出てくるんだもの。
自分からは見えなかったし気にはならなかったのですが、縫合後が内出血で真っ青になっていました。両方の目の周りが青いのです。もちろんそれは時間とともに消えて、いまは全然残っていませんが、当時は結構なインパクトだったようで、術後初登校時に担任教師が、おじさんが教室に入る前に級友たちに注意をしていました。
「おじさんは手術をして目の周りが青くなっていますが、おばけとか言っちゃいけません」とか何とかの注意でしたが、おじさんが教室に入った途端にクラス中が「おばけー!」「ばけものー!」と大騒ぎ。先生の注意、逆効果だったんじゃないの?と後に思ったりしました。コドモは容赦ないね。
こういうときに無自覚の差別だとか人権だとかの話を学校側はしておくべきだと思うんだけど、このときはそんな話あったんだかなかったんだか、憶えていません。何しろ40年以上前のお話だから。
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手術生活卒業後のおじさんは
前回のお話で、おじさんはやっとのことで一ト通りの手術を終えました。お読みいただいたように、最後の年は一年中、手術と入院でした。
さて、その予後をお話ししておきましょう。
ずっと痛い毎日痛い
ステント設置の手術の後、排尿時に痛みを伴うようになって、「ステントになれるまで仕方がない」と主治医から言われたおじさんですが、術後6年が経とうとしている現在も、痛みはあります。
ステントが設置されているのがち会陰部、オリジナル(陰茎形成術を受ける前)の尿道口と肛門との間の部分です。この部分というのは「すわる」という動作をするときに必ず圧迫される部分です。どうしても体重がかかりますからね。
固い場所にすわったり、やわらかい布団や椅子でも長時間すわると、圧迫でステントの辺りが痛くなります。すわっている姿勢から立ち上がったりすると「いたたたた」と言わなければならない痛みが発生します。
そんなですから排尿のときはもちろん痛いです。
痛みがひどいときは仰向けに寝るだけでも痛いことがあります。
すべてひりひりするような、ちくちくするような、「傷」の痛みです。
痛いのが当たり前、痛くない時間なんて僅かで、最後の手術から4~5年は毎食後にロキソニン1錠を服んで痛みを抑え、それでも痛いことがほとんどだったので1日2回、インドメタシン座剤を使用していました。
ロキソニン+インドメタシンでもなお痛い日も少なくなくて、内腿にロキソニンの湿布を貼ることもありました。
痛みは体調の良し悪しでも強くなったり弱くなったりがあるらしく、調子がいいときはあんまり痛くないこともあります。あんまり痛くないなら座剤を使わなくてもいいので、座剤は術後の時間の経過とともに少しずつ余るようになりました。
長時間の外出の際、たとえばおじさんは原付ツーリングが好きでときどき単車で遠方へ出掛けるのですが、そういうときは座剤を持って出掛けます。
自転車のサドルは固くて漕ぐときに会陰部にぐりぐりしますが、単車のシートはやわらかくて漕がなくていいので単車は乗ってもOKです。て訳で単車にはよく乗るのですが、暑い季節に出掛けると大変なのです。
座剤を使ったことがある人はご存じのことと思いますが、座剤は融点が低い物質に薬を練り込んであるので、熱で溶けます。体温で溶けて腸内から薬を吸収するようにできています。そして近頃の夏は気温が人間の体温近くになったりします。
そうするとですね、座剤を自宅から持ち出してもいざ使おうとする頃には液体になっていて座剤として使えなかったりするのです。痛み止めが使えないと痛いのを我慢しなければなりません。こういう困ることもときには起きます。
おくすりのおはなし
ロキソニン以外に漢方薬の柴苓湯と、ステントを設置しても排尿しづらいことがあるので尿道が拡張しやすいようにエブランチルが処方されていて、5年ほど服みました。
余談になりますが、ツムラの漢方薬はパッケージに番号がつけられています。柴苓湯は114番です。排尿を促す作用があります。結構いろんな診療科で処方されていて、たとえば1番は葛根湯。風邪引くと服むやつですね。内科で処方されます。16番の半夏厚朴湯は、おじさんは精神科で処方してもらったことがあります。
こんな感じで、広い範囲でたくさんの種類の漢方薬が処方されているので、おじさんの年令になると、同級生たちがだいたいツムラの何番かを服んでいます。
当ブログをお読みのみなさんの中にアラフォー以上の年令の人がおられたら、ご自分や周囲の人に確認してみてください。高確率でツムラの漢方薬を服んでいるツムラーがいると思います。ツムラの何番を服んでいるかでビンゴとかできるかもしれません。
さて閑話休題。
それでも排尿の具合がよくなくて、また手術か?と危ぶまれたのですが、エブランチルをハルナールに変えると復調したので、何とか手術回避。これがつい最近、2020年のことです。
エブランチルもハルナールも、主に前立腺肥大症などで尿の出が悪くなってきた人に処方する薬だそうです。尿道を拡がりやすくして排尿を促します。
泌尿器科では水をたくさん飲んでとにかくたくさん排尿しなさい、ということをたびたび言われます。特におじさんは陰茎形成術を受けて以降、尿道炎だの膀胱炎だのにしょっちゅう罹るのですが、そういうのもたくさん排尿することで罹患率を下げることができるのだそうです。
たくさん水分を通すことで腎臓やら尿道やらの泌尿器系を洗っちゃおう、ということなのでしょうな。だから、夏は水を飲むように巷でも言われていますが、泌尿器科では冬も水分摂取量に気をつけるよう、たびたび注意されます。
冬は喉の渇きを感じにくいこともあり、あまり水分を摂らなくなってしまうので、意識して飲むようにしなければなりません。
という、とても健康な人にはあまりおもしろくないお話でした。こういった薬とか体調の話に興味が出てくるのって、30代も半ばを迎えて以降だろうねえ。おじさんは学生時代から薬物の話は好きだったんだけど。化学とか。
2020年のおじさんの様子
こういった過程を経まして、ただいま現在この文章を書いているおじさんの状態はと言いますと、「だいたい元気」です。
乳房切除術の傷痕は術後20年以上が経つのにまだ残っていたり、腕の傷痕も触れると痺れる部分があったりしますが、それで生活が大きく阻害されているかと言えば、そんなことはありません。
腕の傷は、ちょっと気をつけてスキンミルクだとかハンドクリームだとか、その類いを入浴後などにつけておいた方がいい感じです。冬場は特に衣服の袖に触れるので脂が奪われてカサカサになって、ときどき出血することもあるので(痛くはない)、注意が必要です。
「痛いのが当たり前」だった尿道は、ステント設置後5年(2019年)くらいから痛む率が減ってきて、次第にインドメタシン座剤がいらなくなり、ロキソニンも服まなくて済むようになってきました。
まったく痛くない訳ではありませんがそれも気にならない程度で、ときどき体調によって「いたたたた」というくらいです。尿道炎や膀胱炎の頻度も少なくなってきたのでは……?
おしっこの出具合はスムースとは言い切れなくて尿線は相変わらず細いです。後遺症なのか年令のせいなのか、排尿後にちょろちょろと尿が洩れてきておパンツを濡らすので、また尿取りパッドを常用するようになりました。
尿洩れは健常のネイティブ男性でも中年期以降にはよく起こることなので、仕方がないことなのかもしれません。いまは「男性用尿取りパッド」なんて便利なものも販売されているので、ちょっと面倒なだけで特に困ることもありません。
持病のうつ病は、いまのところ安定しているものの、いつ具合が悪くなるかわからないのは相変わらずです。これも仕方がないやつです。生涯おつきあいしていかなくてはならないやつです。気長につき合いましょう。うつ病のおかげでできる仕事が限られてしまうのは、いまのところは仕方がないのですな。
痛かったり排尿できなかったり起き上がれなかったりものを食えなかったり、そういった一時のことを思えば、おかげさまでいまのおじさんは結構元気で平穏に過ごしています。いまがそこそこいい状態なので、すべていいってことにしましょう。
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ひとまずまずまず一段落
ごきげんよう、一度汗をかきはじめるといつまでも身体がしっとりしているおじさんです。
同じ年のうちに尿道狭窄を5回繰り返したおじさんは、この年2箇月に1回入院していました。自由業でよかった。ベッドの上でもできる仕事をしていてよかった。上半身が元気なら仕事できる職業なので、それだけは助かったなーと思っていました。
さて、何度拡張しても繰り返し狭窄してしまうおじさんの尿道をどうしてくれようかと執刀医のK医師が思案した結果は、「尿道ステントの設置」でした。
これで駄目なら駄目です
狭窄した上に段違いになっているおじさんの尿道。そこを無理やり拡張してカテーテルを挿入しています。カテーテルは膀胱まで挿入していますから、尿道カテーテルからの排尿は滞らないはずです。しかし、検査の振りをした強行手術の数週間後、出なくなったのです。
同時に膀胱瘻も設置していましたから、尿道カテーテルから排尿できなくなっても膀胱瘻から排尿できるのですが、一生お腹に穴が空けておく訳にはいきませんから、尿道からスムースに排尿できるよう治療せねばなりません。
という訳で、ステントの設置に踏み切るのです。ステントの設置については以前にお話しした通りです。
狭窄部と狭窄部に橋渡しをするようにステントを設置するのですが、その位置が膀胱にずいぶん近いので、どう留置しても尿道口側へとすべってずれてしまって、ステントの一方の端が尿道にできている空洞の中に落ち込んでしまうのではないか、というK医師の見立てです。
上手に手術してもステントはずれてくるだろうし、粘膜がないから定着も難しいだろうし、これで駄目ならやりようがない、という……つまり、だいたいうまくいかない宣言です。いや、そんな予言いりません。
という感じに、人工尿道の治療は難儀なのですね。陰茎形成術をこれから受けようという人はこういうことも覚悟しておいてください。
つつがなく退院
ステント設置手術は、おじさんが総合病院の泌尿器科で受ける5回目の手術です。2月にはじめて内視鏡手術を受けてから5回目で、季節は早くも冬、師走の風が吹いていました。季節が一巡しましたよ。
5回目の入院ともなるとおじさんもすっかり慣れていましたが、病院側もそうなのか、今回の入院ではこれまで毎回していた尿測が省かれて、しかも日曜日に入院してくださいとのこと。あら楽だわ。
内視鏡とか切開とかステント設置とか、手術の内容は違っていても、患者であるおじさんがやることは毎回同じです。緩下剤や浣腸でお腹の中をきれいにして、手術台の上で点滴と吸引で全身麻酔をしたら直ぐに眠ってしまって、目が覚めたら手術は終わっているのです。
今回の手術がこれまでと違ったのは、これまで4回の手術はいずれも術後に会陰部(尿道口と肛門の間辺り)に鈍痛があったのですが、これがない。そして、術後の排尿時に感じていた狭窄部にできた空洞が無理に押し広げられるような感覚がなかった。これまでの手術と違う感覚は、これまでとは違う結果を期待させました。
従来通り3日間、抗生剤を点滴して、4日目に尿道カテーテルを抜去。5日目に退院です。膀胱瘻は万が一のためにまだ温存。お腹からカテーテルを生やしたままの退院です。
尿道には形状記憶合金製の針金をコイル状に巻いたステント、お腹には穴を開けてカテーテル。そんな状態で年越しをしたのでした。紅白歌合戦も見たし年越しそばも食べて、「いつもの」年越しでした。
年始から痛い
手術から2~3週間経ったでしょうか。年明け間もなく、排尿時に痛みが発生します。会陰部辺り、尿道のおそらくステントが留置されている部分がひりひりと痛むのです。尿道の内側がすりむけていて、そこに尿が通るのでしみる。ちょうどそんな感じの痛みです。
排尿のたびに痛くて、結構な強さの痛みです。おそるおそる排尿して、ステント辺りを尿が通過すると「いたたたたた!」と声が出てしまうほど。声を出さないと耐えられないくらいの痛みです。想像できる? 内臓がすりむけている痛みって。
年始第1回の通院で主治医に訴えてみたところ、「慣れるまで仕方がない」とのこと。身体に異物が入っている訳ですから、痛みだの異物感だのがあって当たり前ということです。入れ歯や差し歯、眼鏡やコンタクトレンズなんかもそうですよね。これらはつけ外しができるけど。
慣れたら異物感や痛みは薄れるだろう、という主治医の意見でしたが、最後の手術から6年経とうとしている現在もまだ慣れていません。ましにはなったけど、痛いヨ。
でも、最後の手術から1年ほど前に急にはじまった切迫性尿失禁によく似た症状は、この頃にはなくなっていました。手術のおかげなのか、そのほかの要因があってのことなのかは、いまとなってはわかりません。
しかしとにかく、「いつおしっこが出てしまうか自分でさえわからない」という差し迫った心配を常にしていなくてもよくなったので、精神的にずいぶん楽になりました。おむつもはかなくて大丈夫です。
かなり激しい痛みを伴うものの、したいときにしたい場所で排尿できるのだから、有難いものです。
穴は放置
最後の手術から5週間後、年が明けて初めての通院日に、膀胱瘻カテーテルも抜去しました。久々の身体から1本も管が出ていない状態です。2週間おきに膀胱の中を洗浄してカテーテルを交換するというケアを必要としてきましたが、それももうおしまいです。
おしまいならどうするか。まず、おもむろにカテーテルを膀胱瘻から引っこ抜きます。膀胱瘻というのは、何度か説明していますが、恥骨の上3cm辺りに皮膚から膀胱まで貫通するように空けた穴です。直径8mmくらいの穴を空けて、そこに管を突っ込んであるのです。
カテーテルを抜いたら穴の上にガーゼを当てて、サージカルテープで貼りつけて、おしまい。ガーゼを当てる理由も傷(穴)の保護ではなく「おしっこが洩れてくるといけないから」。そんでもって、当日の入浴も可。
「穴からお湯が入ったりしないの?!」と思うでしょ? 大丈夫らしいです。おじさんも半信半疑でお風呂に入りましたが、何も起こらなかったから多分湯が入ったりはしなかったんだと思う。入浴後はガーゼなしで過ごしましたが、中身が洩れることもなく。
穴が空いてるのに放置です。それでも1週間もすればそれも塞がるのだから、人間の身体ってすごいね。
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ステントの提案
ごきげんよう、ネパール料理にハマりつつあるおじさんです。
いやはや、またもやすんごい痛い手術を受ける破目になったおじさんでした。何でこんなに痛いエピソードが増えていくのだ。
検査と称して、全身麻酔下でやるべき手術を簡易麻酔だけで敢行されてしまった後はどのようにことが進んだかのお話を、今回はして参りましょう。
カテーテルが2本の生活
狭窄した尿道をほぼ無理やりにこじ開けられたおじさんは、尿道口からと膀胱瘻と、2本のカテーテルが挿さった状態で秋を迎えておりました。尿道狭窄のはじめての手術が真冬でしたから、月日が経つのは早いものです。
身体にカテーテルが2本挿さっていて、そのどちらからでも排尿できるのですが、ちんちん経由よりも断然、膀胱瘻からの方がかんたん便利にできるので、おじさんは専ら膀胱瘻カテーテルを使って排尿していました。急いでいるときもささっと済ませられます。
狭窄した尿道にカテーテルが通り、排尿できるようになったからOKだネ!という訳にはいきませんでして、後日再々々手術がしますということになりました。ただし、塞がったところを拡げるだけでは何度でも再発することがわかっていますので、再発しないようステントを設置する予定です。
ステントというのは、脳梗塞や心筋梗塞などでも使われるのでご存じの人も多いことと思いますが、血管だとか気管だとか腸だとかの身体の管状の部分で、塞がってはまずい部分が塞がらないように設置しておく、金属製の管です。
おじさんも実物を見たことはないのですが、現在おじさんの尿道の中に収まっています。ということは、この手術は無事に済んでいる訳です。しかし、おじさんの尿道が人工のものであることが、普通に手術するだけでは済まないかもしれないリスクを生んでいます。
というのも、ネイティブ男性の尿道にステントを設置した場合は、以前にもお話しした通り尿道の内側には粘膜があるので、設置したステントに粘膜が巻きついて固定されるのですが、おじさんの人工尿道には粘膜がありません。
粘膜がない尿道にステントを設置しても安定せずに、身体の動きによって設置位置がずれてしまうかもしれないのです。
これを解消する手段としては、口腔粘膜を採取・培養して尿道に移植するという方法があるのですが、それを行うのか、また、次の手術をK医師が行うのか別の医師に依頼してほかの病院で行うのか、今後考えていきましょうということになりました。
当時は特に考えていなかったのですが、いま振り返ってみると、どうもK医師はこれ以上のおじさんの手術をしたくなかったんじゃないかと思います。
というのも2回目の手術以降、「もとの手術(陰茎形成術)をどうやったかがわからんからなー」、「もとの手術をしてくれた先生にやってもらうのがいいと思うなー」というようなことをK医師はたびたび口にしていたのです。「もうお手上げ」って言いたかったのではないでしょうか。お医者って、ほかの医者が手術した患部を手術するのって厭なものらしいし。
しかしのう。ほんとうはこんなことではいけないのだけど、おじさんももう一度タイへ飛ぶお金はなかったしのう。
ほんとうのことを言うと、こういったアフターケアも含めて病院選びはしなければならないのです。海外の病院で手術をするなら、術後トラブルが起きたときにきちんと治療できる医者を渡航前に確保しておくべきなのです。そうでないなら海外の病院で手術を受けるなんてこと、しちゃいけないのです。
これから手術を受ける人へのお願い
ここからちょっと脱線しますけども。
おじさんは陰茎形成術を受けたために、腕に大きな傷痕が残っています。おじさんはこれをみっともないとは思わないので、隠していません。夏などは半袖シャツを着ますのでまる見えです。「それは何の傷?」と訊ねられたら「性別適合手術の痕です」と答えます。
▲買いものするときなんて傷痕を見せる姿勢になるんだよ。
これに非難を受けたことがあるんです。
性別適合手術を受けた人は腕に大きな傷が残るということが一般の人に知れ渡ると、同じ手術を受けたけど性同一性障害であることを伏せて、ネイティブ男性として世間に溶け込んで生活している人またはそうしたい人が、腕の傷痕から性同一性障害であることがバレてしまって生活しづらくなるじゃないか、と言うのです。
しかしですね、「性同一性障害であることを生涯伏せて生きる」ことを予定しているのなら、腕みたいな目立つ部分に大きな傷痕が残る術式は、予め選択肢から外しておくべきなのです。
陰茎形成術で使う皮弁を採取することができる部位は、何も前腕だけではありません。半袖シャツを着てもシャツで隠れている上腕だとか、下腹部や下腿を使う術式もあります。他者に傷を見られることで知られたくないことが知られる可能性があるなら、傷が残っても他者に見えづらい場所を使う手術をしてくれる医者を選ばなくてはなりません。
そういったことは手術を受ける前によくよく考えておくべきことだし、「陰茎形成術を受けると術式によっては腕に大きな傷痕が残る」なんてことはちょっとネット検索すれば誰でも知ることができる内容だから隠したところでほとんど意味はないし、手術した後でおじさんに文句を言われても「知らんがな」としか言えません。
愚痴を言ってしまったようではありますが、よくよく憶えておいていただきたい。「手術を受ける前に充分に情報を収集・吟味した上で術式や病院を手術を受ける本人が決めて」、後々悔やむことも他人に文句を言うこともしなくていいようにしてください。自分で調べて、自分で決めて、自分の責任において行ってください。
おじさんを非難した人も、おじさん自身も、事前の情報収集と準備が甘かったのです。
性別適合手術に限りませんが、「手術が100%成功する」ということは、まずありません。術後には規模の大小こそあれ、必ず何らかの不具合が生じます。それに対応できる病院と治療費及び渡航費等は、手術費用に含めて予め用意しておきましょう。
これも以前にもお話ししたかと思いますが、性別適合手術はゴールではありません。むしろ性別適合手術が終わったところがスタートです。手術を終えた後にどのような生活をするのかのヴィジョンをきちんと見据えて、その上で術式と病院を選びましょうということは、重ねてお願いします。
次はステント設置手術
といったところで閑話休題。
近日中におじさんはステントを尿道内に留置する手術を受けることになりました。それまでは、尿道と膀胱瘻の2箇所に挿入したカテーテルの衛生管理をしなければなりません。
カテーテルが挿さっていても入浴はできますが、湯舟に浸かることはできません。シャワーのみ。浸からなくても入浴を済ませることは難しくはありませんが、やっぱりときどきはたっぷりの湯に浸かって「くはぁ」とか「え゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛」とか言いたいですよね。
この頃になると腕の傷ぱっくりやら尻の傷やらはすっかり快癒しておりまして、気にせねばならないのはカテーテルの管理とこみ上げる尿意のみです。いや、こみ上げてきて堪えきれない尿意は、この頃にはほぼ起きなくなっていたのだったかな。
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