おじさんがおじさんになるまでの話

おじさんは昔おじさんではなかった。それどころか、男の子でさえなかった。男の子に生まれなかったおじさんが、いかにしておじさんになったかを少しずつお話ししていきます。

ウカツにエーキョーされて志願の巻〔個人史6〕

ごきげんよう、りんごは生より火を通した方が好きなおじさんです。

長い長い大河シリーズ、おじさんの個人史。いままで通し番号を振ってきましたが、各回の内容に沿ってタイトルをつけることにしました。その方が読む人もおじさんもきっとわかりやすい。よね?

前回まではおじさんの学生時代にふれていた個人史、今回からはたらくおじさんのお話です。

おじさんと仕事

おじさんは、内にこもった子供でした。人見知りがひどく、自分からは他者と関わらない子供でした。それがそのまま育ったものですから他者と口を聞くことが大仕事で、20歳を過ぎるまでファストフードの店で注文することさえできなかったのです。

おじさんが学生ではなくなり、働く人になったのは19歳の秋口のこと。職場でのおじさんも推して知るべし、です。

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はじめての職場は、既にお話した通り、とある工場でした。はじめて配属された先は、最早や定年退職の日を待つばかりの人ばっかりが寄せ集まったのんびりした部署。はじめて「働く」ということをする、右も左も前も後ろもわからないおじさんでも、現場の人たちは気長に指導して何とか使える作業員に仕立ててくれました。

しかし、この職場には難がありました。お給金が、とてもお安い。

おじさん、一応大学に進学したんですが、訳あって一瞬で退学してしまいました。その「訳」のひとつには「経済的理由」てのもあって、だから働きはじめたのですが、1年勤めても昇給の幅がやたらと狭かった。初回の昇給幅が時給にして20円。

これはここで勤続してもいつまでも薄給のまま。それを思っていた頃に2冊の本と出会います

1冊は『別冊宝島 裸の自衛隊!』(当時・JICC出版局/現・宝島社)、もう1冊というか1作は『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ講談社)です。

 もうおわかりですね。うかつに影響されてしまったのです。

当時はまだバブル経済の栄華が残っていた頃。自衛隊が国外へ出ていくことなんてあり得ないと考えられていた時代です。完全週休2日制の、規律正しい職場。3食提供されて賞与年3回。目が眩みました。そして単純な艦艇への憧れ。

当時まだ20代前半でまだおじさんではなかったおじさんは「取り敢えず資料だけ取り寄せてみよう」と思い、街に貼り出された「自衛官募集」のポスターの横にくっついている資料請求はがきを持ち帰って必要事項を記入の上、投函しました。

そしたら、資料と一緒に広報官(自衛官募集事務所の職員=自衛官)が家に来ました。

家族とともに広報官氏の話を聞くうちに、あれよあれよという間に一般採用試験(現在の自衛官候補生試験)を受験することになりました。ここからおじさんの仕事遍歴がはじまります。

転職最初の一歩は特別職国家公務員

おじさんが受けた自衛官採用試験は「一般」、合格すれば2士(2等陸・海・空士)に任官し、初頭教育課程(約3箇月)を経て各部隊に配属されるというやつです。現在で言う「自衛官候補生」ですが、現在の制度では試験に合格して初等課程を終えてから2士に任官するようです。

おじさんが資料請求はがきを出したのは5月だったので、ほかの一般曹候補学生だとか技術曹だとかは受験時期を既に過ぎていたし、防衛大学校は当時はまだ女性は入学できませんでした。こうして振り替えるとめちゃくちゃ昔の話ですね。一時代過ぎてしまった感。

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当時のおじさんが受けた自衛官採用試験の内容は、筆記試験・口述試験・適性検査・身体検査です。自衛官は女性の場合、身長150cm以上必要です(1990年頃の規定)。

ほか、肥っていてもいいけど肥り過ぎは駄目、虫歯がたくさんあると駄目、重い持病があると駄目など、身体検査で予めクリアする必要がある項目は割りと多めです。適性試験クレペリン検査とか谷田部ギルフォード検査とか、よくあるアレです。運転免許取るときにやるやつね。

試験は最寄りの陸上自衛隊駐屯地(2つ隣りの県)で行われました。駐屯地内に自衛隊病院があるので身体検査はそこで行います。実に当たり前のことですが、受験するおじさんとほか2人以外のそこにいる人は医師や看護師も含めて全員自衛官なんですな。当時はそれが何だか不思議に感じました。

おじさんが受験した頃は、自衛官のなり手がいなくて募集事務所の人がやたら苦労していた頃です。街なかでぼんやり信号待ちなんかしていると誰彼構わず「自衛隊に入りませんか」とリクルートされてしまうという「笑い話」があったくらいです。

自衛隊リクルートの苦労話の例としては、前述の『裸の自衛隊!』という実録本によると、あんまりにもなり手がいないので、自分の名前を漢字で書けない人まで「魔法を使って」入隊させていた、という話もあります。

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それくらい志願者が少なくて、それだけに入隊しやすかった時期の、終わり頃でした。間もなくバブル期が終わって、入隊条件がどんどん厳しくなっていくのです。

さて、おじさんが受験したのはとても入隊しやすい時期だったし、どうしても自衛官になりたいという訳でもなかったので、結構気軽に受験したのでした。筆記試験は国・英・数の3科目で各科目4択で回答、レベルは中学卒業程度の学力とされていました。口述試験というのは面接のことです。

おじさんはこれにするりと合格して、あれよあれよで入隊することになりました。

はじめて家を出る

当時はまだ女性自衛官ではなく「婦人自衛官」と呼ばれていて、その数も陸上自衛隊以外ではまださほど多くはありませんでした。自衛隊は「輝号計画」というイメージアップ作戦のもと、自衛官増員及び婦人自衛官を積極的に採用して配属範囲を拡げるということをしていました。

自衛隊採用試験は陸海空共通で、口述試験時に配属希望先を(一応)訊いてもらえます。希望と試験で判断された適正を総合して配属先が決まります。おじさんの希望はもちろん海上自衛隊口述試験で「海上に配属されないなら入隊しません」と言いきったのがよかったらしく、希望通りの入隊が決定しました。

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婦人自衛官の入隊時期は春と秋の2回あって、おじさんは秋組に入りました。これは受験及び合格の時期によります。春組は学校卒業すぐの人たち、秋組は中途採用の人たち、という風に必然的にその割合が多くなります。

春組は国内5ヶ所くらいで教育が行われますが、秋組は海上自衛隊の場合は横須賀教育隊一択です。おじさんは近畿の端っこの住人だったのですが、荷物をまとめて夏の終わり頃に横須賀へと旅立ちました。

このときまでおじさんはずっと実家暮らし。実家以外で寝泊まりなんて入院したときと修学旅行くらいしかありません。自分で旅行に行くことすらなかったのです。どちらかというと不安の方が多い状態で出発しました。何と募集事務所の広報官氏が家まで迎えに来て駅まで送ってくれるのです(逃げられない)。

ちょうど映画『魔女の宅急便』が公開された頃で、乗せてもらった広報官氏の車のカーラジオから、件の映画のエンディングテーマ曲『やさしさに包まれたなら』が流れてきたのが印象的で、いまも憶えています。

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着隊日から入隊式までは、地方から集まった入隊候補者らは隊内でとても大切に扱ってもらえます。「班長」という、教育隊での班(9~11人の単位)に1人つく担任教師的上官も親切でやさしいです。

しかし、入隊宣誓書に署名・捺印した瞬間から、日本各地から集まった採用試験合格者たちは「自衛官」となります。その瞬間から「お客さま」ではなくなり、班長たちも鬼のよーな存在となります。

ここから約半年間の「練習員課程」での基礎教育を経て、新人自衛官は各部隊へと配属されていきます。おじさんも半年間を横須賀教育隊で過ごすはずだったのです……が。

「が」と言えば逆接の接続詞。逆接するお話をこれからせねばならないのですが、続きは次回に。

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