おじさんがおじさんになるまでの話

おじさんは昔おじさんではなかった。それどころか、男の子でさえなかった。男の子に生まれなかったおじさんが、いかにしておじさんになったかを少しずつお話ししていきます。

「婦人」になれずに職を転々〔個人史7〕

ごきげんよう、冬のはじめ頃にいつもすき焼きを食べたくなるおじさんです。

仕事を改めたく何と海上自衛隊の門をくぐったおじさん。練習員課程では小学校入学時以来の性別問題に行き当たったのでした。服装もネックではあったけど、問題は服装だけではなかったなあ。

と振り返る今回の記事です。

教育隊練習員課程

おじさんが振り分けられた班には北海道から九州・鹿児島まで、さまざまな街から若者が集まってきていました。みんな未成年です。ハタチ過ぎているのは班員11名のうち、おじさん含めて3人のみでした。このとき生まれてはじめて「もう若くはない」と思いました。

実際はそんなことはないのだけど、自衛隊(特に練習員課程)は体力勝負と言えるのでね。最年長は出戻り組(一度入隊したけど何らかの理由で練習員課程の途中で辞めた人)の25歳でした。

練習員課程てのは何をするかってーと、まずは陸警備訓練。気をつけ、右向け右、左向け左、まわれ右、敬礼、挙手の敬礼などの基礎動作と隊列を組んでの行進を学びます。これをまる1ヶ月ほど、カンペキにできるようになるまで徹底的に練習します。

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自衛隊だの警察だのに興味がない人は割りと誤解しているのですが、こういった部隊で行われる「敬礼」というのはお辞儀が基本です。しかも浅いお辞儀。「10度の敬礼」と言って、上体を10度だけ前方に傾けます。

深く傾ける「45度の敬礼」は「最敬礼」とも呼ばれ、天皇陛下か亡くなった人に対してのみ行うものです。たとえば上官に深々とお辞儀をすると「まだ死んでない」と言って怒られたりします。手刀を額のわきにかざす「挙手の敬礼」は帽子をかぶっているときだけ行う敬礼です。

といったことを、無意識にできるまでになるよう練習します。その他、海上自衛隊では手旗信号の基礎やカッター(ボート)訓練、執銃訓練などか前期練習員課程(基礎教育)で行われます。おじさんが知っているのはここまでです。おじさんは練習員課程を終えることなく退隊してしまったからです。

おじさんは婦人になりきれなかった

20代前半のおじさんはまだおじさんではなく、世を忍ぶ仮の女性でした。当然、入隊は婦人自衛官として婦人自衛官の練習員課程に入りました。現在は「女性自衛官」と呼ぶことになっているようですが、当時は「婦人自衛官」と呼んでいたのです。海上自衛隊には「婦人自衛官の歌」なんて隊歌に準ずるものもあって、入隊式やらで歌いましたなあ。

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婦人自衛官の制服の基本型はタイトスカートです。高校卒業以来のスカート、しかも着るたびに皺を撲滅しなければならない苦行つき。

普段の訓練は作業服なのでズボンですが、公式の場所や休日に外出する際は制服です。練習員は教育隊の宿舎で生活しますが、教育隊の敷地外へ出るときは必ず制服を着けなければなりません。

制服は一度でも着たら必ずアイロン。自衛官の服には皺があってはいけないからで、外出前には上官による皺チェックがあります。ひとすじでも皺があると外出許可は下りません。

制服を着るたびに直面する「自分は『婦人』自衛官なのだ」という事実。「自分は自衛官になりたがったけど、婦人自衛官になりたかった訳ではない」という気持ち。それらが戦う……つまり葛藤するんですな。

割りきるということができれば、こんないい仕事はなかったのです。定時で終われるし、休日出勤しても必ず代休をもらえるし、完全週休2日制だし、上官の指示に忠実に動いていればいいし(むしろ命令にないことはしてはいけない)、人見知りしがちなおじさんだけど同期入隊の人たちとも仲よくなれたし、訓練はキツいけど身体を動かすことばかりで健康的だし……。

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そういったメリットを考え合わせても、当時のおじさんには「婦人自衛官である」ことが耐えられなかったのです。前期練習員課程が終わるのを待たずに退隊と相成りました。

でもね。ここで辞めずに2任期(5年)もがんばれば性別適合手術の費用なんて、きっとすぐ貯まったんだよねー。部隊暮らしなら家賃も不要で食事も無料、賞与年3回だし。

てことを性別移行を決意する頃から思い直したおじさんは、後に再入隊を目論んで採用試験を受験し直すのですが、バブル期が過ぎて就職氷河期、志願者が増えて試験は次第に厳しくなり、出戻りなんてとても採用にはなりません。おじさんがはじめて入隊したときにはいたんですけどね、出戻り組。

当時の年令制限ぎりぎりまで5~6回受験しましたが、とうとう再び採用されることはありませんでした。

「採用試験のために」を言い訳に

前述したように、自衛官の採用試験は春と秋の2回あります。そのいずれも受験し倒したおじさんは「受験を経て合格する予定なのだから」とずっとパート・アルバイトでお茶を濁してきました。「長期間勤めることもないのだから」と敢えて期間限定の短期アルバイトを選んで就いたりもしていました。

おかげで下記のようにいろんな 触手 職種を経験することになりました。

はじめて「働く」ということをするようになってから持病で倒れてしばらくお勤めから離れるまでの間に、憶えているだけでこれだけのことを経験しました。憶えていないものももちろんあります。

憶えているだけで1ダース以上の職種を経験していますね。このうち3社は正社員として勤めましたが、3社も勤めたってことは長続きしてないってことですな。おじさんの場合は、仕事が厭で転職する訳ではないんです。

正社員にならなかったものは「自衛官になるから」という理由で短期間で終われるものを選んでいたこともあったのことですが、それ以外の理由も当然あります。そのだいたいが、おじさんの タイ人 対人スキルの乏しさにあると言っても過言ではないでしょう。

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前回のおじさんの個人史〔6〕でちらっと申しましたが、おじさんは20歳を過ぎるまでファストフードの店で注文することさえできない人でした。他者と会話することが怖いというか億劫というか、苦手だったのです。

それでも何年か働くうちにだんだん話せるようになって、特にテーマパークのキャストを経験してからは、ときには積極的に自分から話しかけるようにもなりました。だから、新しい職場に入っても、できるだけ先輩・上司諸氏とコミュニケーションを取って馴染もうという努力は(おじさんなりに)しました。

しかし、おじさん側の努力だけではどうにもならないこともあるのでした。おじさんの努力なんてほかの人ができることに比べれば「できて当たり前」のことだったのかもしれませんが、それでもできるだけのことはしたのです。でも駄目だったのです。

どんなことがあったのか。次回はそのお話をしてみましょう。ちょっとイヤな感じのお話をしてしまいますが、次回もよろしくお願いしますね。

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