おじさんがおじさんになるまでの話

おじさんは昔おじさんではなかった。それどころか、男の子でさえなかった。男の子に生まれなかったおじさんが、いかにしておじさんになったかを少しずつお話ししていきます。

髪型とセーラー服〔個人史3〕

ごきげんよう、知らない土地へ行くときは必ず前もってGoogleMapで道順を確認した上で文字地図を作るおじさんです。

大河浪漫おじさんの個人史、長々と続きます。前回でようやく小学校に入学したおじさんは、入学式のために親が用意した「少女らしい」服装を泣いて厭がったために、それ以降は少女らしい服を着けることを強要されることがなくなりました。

さて、髪型についてはどうだったでしょうか。今回はそこからお話しして参りましょう。

髪の長さ

ものごころつく前のおじさんは、腰まで髪が長くて「お人形さんみたいにかわいかった」と亡父がときどき言っていました。しかし、ほかにそのようなことを言う者がいなかったし、おじさんもその頃の記憶はないし、事実かどうかわかりません。

ものごころついたときから中学校を卒業するまで、おじさんはだいたいおかっぱ頭でした。いま風に言うとショートボブです。前髪ぱっつん。おじさんが好んでそうしていたのではなく、ものごころついたとき既にこの髪型で、変える必要を感じなかったのでそのまま維持していました。

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しかし一度だけ、長く伸ばしたことがあります。小学校の5年生のときです。

おじさんには8歳年長の姉がいます。その姉が、ずっとショートカットのおじさんを一瞥して、何を思ったのか「一遍、長く伸ばしてみな、5000円あげるから」などと言い出したのです。

長髪はうっとうしくて、おじさんは正直のところ好きではなかったのですが、お金をもらえるのなら、と伸ばしはじめました。意地汚い&ノンポリシー。

当初は「腰の辺りまで」と言っていましたので、その長さまで伸ばすつもりでいたのですが、毛先が肩についてくるんとまるくなる頃に姉が言ったのです。

「もう切っていいよ」

5000円もくれました。それきり姉は「髪を伸ばせ」というようなことを一切言わなくなりました。よっぽど似合っていなかったのだと思います。

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似たようなことは、この12年後にも起こります。おじさん23歳のとき。もういい年頃なのに娘さんらしくならないおじさんを心配したのか、母が「お金あげるからパーマでもかけておいで」と言い出しました。この場合の「お金」は美容院の料金です。

じゃあ行ってこよう、と次の休日に早速、美容院に出掛けます。その頃からおじさんは理髪店を利用していて美容院には馴染みがないので、母の行きつけの店舗を選びます。

予約もなしに飛び込みで行って、特に注文もなく「いい感じにしてください」というふわっとしたオーダー。というのも、美容院を利用したことがないので美容院ではどんなことができて、何をどんな風に指定すればいいのかがわからなかったからです。

餅は餅屋、わからないことはプロに任せよう。そうして鏡の前にすわって3時間。くるくるふわふわした髪型になりました。鏡の中の自分を見て、おじさんは「林家三平師匠(初代)か」と思いました。

帰宅して母に声をかけると、母はおじさんを一目見て「んー」と言ったきりでした。それきり母はおじさんの髪型について口を出すことが一切なくなりました。よっぽど似合っていなかったのだと思います。

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という訳で、おじさんはショートボブからベリーショートへの変遷はあったものの、特におしゃれをするでもなく、ただ「襟足に髪が触れるのが不快」というだけの理由で、一ト月に一度の頻度で理髪店に通っていたのでした。

寝るときに枕を使うでしょ? 頭の下に枕を敷いたときに首周辺に髪の毛が触れるのが厭だったの。だからずっと刈り上げてもらってたなあ。

セーラー服を着る

おじさんが通った中学校と高校は、どちらも制服がセーラー服でした。小学校入学時にごねて以来おじさんはスカートを一切はかない子だったので、小学校卒業が近づいてくるとおじさん本人よりも同級生たちが「おじさんは中学校行ったらスカートはくの?」と気にするようになりました。

おじさん自身、スカートを回避できないかと考えなかった訳ではありません。入学前にもらった中学校校則の服装の項を読んでみると、「女子の制服については、場合によってはモンペも可」と書いてありました。

知ってますか、「モンペ」。モンスターペアレントのことではありません。

モンペというのは、袴のようなズボンのような、女性用の下衣です。第二次大戦中に国によって奨励されて普及したものですが、おじさんの中学校入学の頃は戦後38年も経過していて、モンペをはいている人なんて既に見かけなくなっていました。

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「いつの時代の校則か」などと言われていましたが、校則に記されている以上はモンペも選択肢か、とおじさんは刹那考えました。しかし。

制服って、制服専門の業者に仕立ててもらいますよね。そのためには事前に採寸などしてもらわなくてはなりません。おじさんはその採寸に母に連れられて行ったのですが、そのときの母が、とてもうれしそうな楽しそうな様子だったことがとても印象に残っています。

おじさんの父はその頃まだ存命中でしたが、何かと病気を名目に働かない人でした。だから母がおじさんや姉2人(計3人)を、昼も夜も働いて、その上で家事もして、いつ眠っているんだろうという生活をしながら養ってくれていたのです。

そうして稼いだお金で仕立ててくれるセーラー服を、厭だなんてとても言えません。かくして、おじさんは中学校の入学式でセーラー服デビューをすることになるのです。入学式当日、中学校の玄関で同級生に「スカートはいてる!」と指を差されたのも愉快な思い出です。

あんまり乗り気でなかったセーラー服ですが、1学期が終わる頃にはすっかり慣れてしまって、特に不都合はありませんでした。

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おじさんはもともと着るものに頓着のない人でしたし、毎日同じものを着ていても誰も何も言わないし、校則に沿って着ている限り誰にも口を出されないという面倒のない服だということで、便利なものとさえ思っていました。冠婚葬祭のどれにも着ていけるし。

それに、ネイティブ男性として生まれていたらおそらく着ることがなかったものを着る経験ができたので、得をしたような気さえしています。詰襟の学生服を着る機会もあったし、学校の制服については悔いも厭な思い出もありません。

こういうところが「当事者の中の多数派」とおじさんとの相違点です。当事者の間の「よくある話」で言えば、「望まない制服を着なければならないことが苦痛だった」ということになるようです。どんなことでもそうですが、「多くの人がそうだけど、みんながみんなそうじゃない」てことですな。

求めるより求められるものが

学校という社会の中で過ごすことでおじさんは、ぼんやりしていた性別違和を次第に強く感じるようになっていきます。自認する性と社会から求められる性の間にある「ずれ」や自分に備わっていないものを周囲から求められる苦痛など、当時感じていたものについて、次回はお話ししてみようと思います。

ぜひ次回もご期待いただきたい。たい。

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