おじさんがおじさんになるまでの話

おじさんは昔おじさんではなかった。それどころか、男の子でさえなかった。男の子に生まれなかったおじさんが、いかにしておじさんになったかを少しずつお話ししていきます。

入院で進んだこともある〔個人史19〕

ごきげんよう、数字はめちゃくちゃ苦手ですが数学的ロジカルシンキングは結構好きなおじさんです。

病院の入院病棟は部屋が性別によって分けられていて、これは当たり前のことのようでいてトランスジェンダー性同一性障害の人にはちょっとした障壁になっています。おじさんは2000年からしばらく入退院を繰り返したのですが、このときの入院を境に世界観が変わりまして、おじさんにとって大切な経験だったと言えます。

その入院の際の部屋割りについて、前回はお話ししました。今回はお風呂のお話をしましょう。

気楽な終い風呂

入院生活で厄介なのが部屋割りともうひとつ、入浴です。おじさんが入院した病院の風呂は大浴場でして、週の半分は「男性:午前、女性:午後」、もう半分は「女性:午前、男性:午後」という風に入浴時間が振り分けられていました

この点についても転室と同時に病院側が考えてくれて、おじさんは「終い風呂」に決まりました。午前と午後で男女入れ替わりになる入浴時間でしたが、どの日程であってもおじさんは全員が入浴を終えた後に入浴する、ということになったのです。

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こうしておくと、おじさんが風呂を使っている途中で入ってくる人がないだろう、ということです。ひやひやしながら入浴したこともありましたが、入浴姿をほかの入院患者に見られてしまうことは、長い入院生活の間に一度もありませんでした。

長い入院生活。当初の治療計画では入院期間は3箇月とされていましたが、実際は6ヶ月間入院しました。一旦退院はしましたが、あまり予後がよろしくなく、退院から1年後に再入院しまして、この2回目の入院も6ヶ月間でした。当時はこれが可能だったのですね。

おじさんが2回目の入院をしている間に制度が変更されて、住所が病院になっていた人も退院させられて、長期の入院ができなくなりました。現在ではまずは1箇月、長くても3箇月くらいで治っていてもいなくても退院しなければならなくなってしまいました。

お医者頼みのカミングアウト

入院計画(治療計画)を立ててくれたのは担当医のY医師でした。この人は根気よく患者の話を聞いてくれる人で、Y医師だから話せることというのもあり、担当していただいて随分楽になりました。また、性同一性障害についてもいくらかの知識と理解があり、おじさんが「女子部屋ヤダ」と訴えた折りに、すぐに転室の指示を出してくれたのでした。

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秋口に入院して、半年ばかり病院にいましたから、間に年越しなどもありまして、退院は2月半ばでした。さて退院という段になって、おじさんはちょっと不安になったのです。うちの家族は精神科の病いについて大きく偏見を持っている、もしくは誤解しているのだろうと。

おじさんは実は年令が一ト桁の頃から心理学だとか精神医学だとかいうものに興味があって、ものの本などにも当たり、いくらか知識があったので精神科受診も躊躇することがなく(むしろ勇んで行った)、入院には驚いたものの、うつ病の診断が下りたときは「やっぱり」と思ったのでした。

しかし家族は、特に親などは「精神病=気狂い=暴れて周囲に危害を加える人」くらいの偏見を社会に植えつけられて、それを鵜呑みにしているのではないか、という不安がおじさんにはあったのです。21世紀になってもこの手の偏見というのはなくならないのですが、昭和初期生まれの人たちとなれば尚のことでしょう。

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という訳で、退院直前にY医師からうつ病について説明していただけるようお願いしました。

同時に、性同一性障害についても説明をお願いしました。そろそろ家族にも話そうという心づもりがあったのですが、知識があっても所詮素人であるおじさんから聞くよりも、医者から聞いた方が(両親にとって)信憑性があるんじゃないかな、と思ったのです。

電車とバスを乗り継いで1時間ばかりかかる病院でしたが、両親に来院の上、Y医師の話を聞いてもらいました。学のない人たちなので医者が言うことが理解できるのかという不安はありましたが、Y医師から聞くには「わかってくれてます」とのこと。

と、まあ、これがおじさんの家族へのカミングアウトです。ちょっと狡いと言えば狡いかもしれませんが、こういう方法もあります。

 ただ、きちんとした説明があったからと言って、その説明を受けた人がすべて理解できるとは限らないんですな。おじさんの両親だってどれだけわかったことやらです。

それでも、医師からの説明があったからなのか、もともとものわかりがよかったのか、おじさんの母は性別適合手術に際しても戸籍上の性別訂正に際しても、特に何も言いませんでした(父はこのとき既に他界)。

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あと、これは閑話ですが、おじさんとおじさんの母は性同一性障害当事者とその親として、某テレビ局から顔出し出演の打診を受けたことがありました。性同一性障害特例法が施行される頃ですから2004年の話ですね。

そのことを「メディアに出て性的マイノリティの近親者ということが世間に知れると、それだけで社会から何らかのバッシングを受ける可能性がある」という断りを付け加えて、おじさんは母に伝えました。

それに答えて母が言ったことは「これまで生きてきて、あとは死ぬだけだから何も怖くない」ということでした。我が親ながら、強い人だなあと思ったのでした。結局のところ、出演はなかったのですけどね。

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前しか見えないときが誰にもある〔個人史18〕

ごきげんよう、芸術家で女優のぬゅぬゅゅゆゅゅゅゅゅさんが芸人時代に名乗っていらっしゃった「バターぬりえ」という名前がとても好きなおじさんです。

突然身体が動かなくなって、何とか病院に行ったら「即入院」と言われて、入院したら女子部屋に入れられました。我慢しようとしたけどできなくて、担当看護師に訴えたら翌朝に数名の看護師がよってたかって病室移動させてくれました。

というところまで、ようやくお話しできました。間にあっちこっち話題が飛んでごめんなさいね。本日は、女子部屋から男子部屋に移ってだいじょぶなのか、というお話を。

おじさん、大移動

病院側も性同一性障害当事者を入院させた経験がなかったのか少なかったのか、外見だけだとまず女性だと判断されることがなかろうおじさんを女子部屋に入院させる判断をしました。

ときは西暦2000年、性同一性障害特例法が成立する3年も前の話ですから、仕方がないのかもしれません。おじさん自身、「仕方がないか」と思って我慢しようとしていましたしね。しかし、うつ病患者に我慢させてはいけませんな。我慢とは即ち抑圧ですから。

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たった3日ほどでしたがおじさんは女子部屋に耐えかねて、その旨を看護師に訴えました。そしてその夜眠って、目が覚めるより先に看護師の一団がやってきて「移動しまーす」と荷物を運びシーツを剥がし、隣りの男子部屋へと大移動。隣りの部屋のベッドには瞬く間にシーツが張られ、荷物が収められ、「以前からここにいました」という風体が仕上がりました。

それはまるで、『8時だヨ!全員集合』のコントが終わって岩崎宏美さんが『ロマンス』を歌い出すまでの僅かな時間での場面転換に似て……(たとえが古すぎ)。実に短時間に、迅速に、確実に。かくして、おじさんは男子部屋の住人となったのです。

この頃の病棟というのはひとつのコミュニティ、町と言ってよかった。というのも、当時はまだ長期入院が可能で、10年入院しているという人もめずらしくはなかったのです。だからおじさんは古い町に新しく越してきた住人みたいな、3学期頃に転校してきた生徒みたいな、関心の的でもあった訳です。

病棟内の人はこの間新しく入院してきた人が女子部屋に入ったことは知っているはずです。なのに、いつの間にか男子部屋の住人になっていることをおかしく思わないだろか。思うだけならいいとして、それを直接問われたらどのように答えればいいんだろか。

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うつ状態でぐったりしていたとはいえ、このときのおじさんにもその不安は感じられたのです。いや、うつ状態だからこそ不安を感じやすいのですねえ。うつは不安を見つけ出すのが上手です。

どうすればいいかわからないことは外部に頼るのがよろしいです。わからないことをいつまでも考えていても「どうしようどうしよう」と不安が増すばかりです。できないことはできる人にやってもらうのが吉。ということを、おじさんはこのときに学びました。それまでは何でも自分一人でやろうとする人だったのですね。

みんな他人が見えてないから

果たして、看護師詰所(今風に言うとナースステーション)に行って、その不安を訴えてみました。相手は担当看護師K氏。

聞いた話はこんな感じです。精神科に入院している人はみんな精神面に疲労が蓄積してしんどくなっている人ですから、他人のことなんて気にしている場合じゃないし気にしていない人がほとんどなんです。自分のことでいっぱいいっぱいなんです。だから、おじさんが部屋を移ったことなんて気がついていない人だっているかもしれない。

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ということで、「気にすんなヨ」というお話。もしも訊ねられたら「入院時には空いているベッドがなかったので一時的に女子部屋に入っていました」てなことを言っておけばいいんじゃない?というご意見でした。

「それでええんかいな」と思う人もおられるでしょうが、このときのおじさんには納得できる話だったので、とりあえず安心しました。これを訊ねてきた人が1人いましたが、実際に上記のようなことを答えると、納得してはいなさそうでしたがそれ以上の追及はありませんでした。のちに「あれ絶対うそやで」という話をしているのは小耳に挟みましたが、おじさん自身が問い詰められることはありませんでした。

誰かが「うそやで」と言ったところで事実がうそになる訳でもないし、うそが事実になることもない。言いたいことは言いたくて言っているのでしょうから、言わせて差し上げればよろしいのです。自分ではない人が言いたくて言うことを「我慢しなさい」とか「言っちゃ駄目」なんて言う権利はおじさんにはございませんでな。

言い切れば突っ込まれない

ここからは閑話で、しかも性別二元論の話になってしまいますが、性別移行中のトランスジェンダーの性別についても似たようなものです。「男性か女性か」てことを本人に訊ねてくる人はとても少なく、訊ねてきても自認の性を答えておけばそれ以上追及してくる人はほとんどいません。

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たとえば答えた性別が「本当かどうか」と詰め寄る人は現れるかもしれませんが、「戸籍謄本見せろ」とか「性器を見せろ」とか、そこまで言う人の話は聞いたことがありません。だから、あとは本人がどれだけ自認の性を自信を持って断言できるかだと思います。自信を持って言い切ると間違ったことでも通ったりするので、言い切るというのは大事です。

さて、閑話休題。入院する際の厄介ごととその解決をお話ししましたが、入院の際に厄介になることがもうひとつあります。風呂です。入浴。長期の入院でしたから、風呂に入らない訳にはいかなかったのですが、そこもご配慮いただけました。次回はそのお話をしましょう。

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おじさん、女子部屋に入院〔個人史17〕

ごきげんよう、関西人らしく粉もの大好きのおじさんです。粉もの丼OK。

突然身体が動かなくなったおじさんは突然入院を言い渡されました。しかも言い渡された翌々日を入院日に指定されてしまいます。怒濤の展開に飲まれて二つの市を跨いだ向こうの病院に辿りついたおじさんを待っていたのは!

おじさん女子部屋に入れられる

ときは西暦2000年。おじさんはそろそろおじさんになろうかという頃で、既に男性として生活していたものの、戸籍上は女性のままでした。入院する病院のその病棟には、個室がありません。だから、男性部屋か女性部屋のどちらかに入らなければなりませんでした。

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はたして、おじさんはまず女性部屋に入れられてしまいました。本人の性自認よりも保険証記載や戸籍に従って病院は判断したのですね。おじさん既にスポーツがりの若おじだったんですけど。

とは言え、部屋ではベッドに寝ているだけですから、殊に性差を感じる場面はありません。それに、おじさん自身、気力も体力も尽きたような状態だったので抗議するとか云々の気も起きず、ひとまず女性部屋でおとなしくしていました。

まわりはおばさんとかおばあさんばかりで、みんな精神面でしんどい人たちなので、他人のことをとやかくしている余裕なんてありません。部屋に新しく来たのがどんなやつかなんてのは気にしていません。おじさんも周りのことは気にしていないつもりでした。

担当看護師K氏現る

ところで、このブログをお読みのみなさんは入院の経験がおありでしょうか。入院すると「担当看護師」がついてくれます。その人だけがお世話をしてくれる訳ではないのですが、その人が中心になって自分を管理してくれるのです。

看護師はたいてい三交代勤務です。おじさんの担当看護師、仮にKさんとしておきましょう、Kさんはおじさんが入院した日は深夜勤でした。おじさんが眠った後に出勤してきて、翌朝の朝ごはんを食べている間に退勤しましたので、初日は会えなかったのです。

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シフトが切り替わったのは翌日。Kさんはその日準夜勤で、17時辺りからの勤務。わざわざベッドまで挨拶に来てくれました。名乗りと「何でも言ってくださいね」という型通りの挨拶だったのですが、何だかすごくほっとしたことを憶えています。

と言うのも、特に気にしてはいないつもりでいたのですが、やはり女性部屋で過ごすのは居心地がよくなかったのです。経験したことがない「身動きできない」という事態から急転直下の入院劇。

しかも自宅から電車でも自動車でも1時間ほどかかる不慣れな街で、いつ退院できるかわからない生活がはじまり、「こっちじゃないのになー」という区分の部屋に入れられて、そりゃまー頭の中がぐちゃぐちゃになってますわな。

そんなときに看護師がわざわざベッドまで来て挨拶してくれたのです。このときまでにも入院の経験がおじさんには何度もありましたが、担当看護師が「担当看護師です」とわざわざ顔を見せに来てくれたことなんてありませんでしたから、とても有難く感じました。

疾風怒濤の転室劇

と、ここまでが長い前提です。そして入院3日目。おじさんはただベッドに横になって過ごしていたのですが、そうすると「もの思う」とか「考える」とかの時間がたっぷりあるものですから、自分のただいま現在の境遇を考えてしまうのですな。

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すると、やはりどうしても自分が女性部屋に入院しているのは理不尽だしつらいのです。という訳で、何度も迷った末に日没頃の看護師詰所(現代風に言うとナースステーション)の扉を叩いたのでした。

余談ですが、精神科病棟の看護師詰所はだいたいどこの病院でも密閉式と言いますか、他の診療科で見られるようなカウンター式でいつでも看護師と対面できるといった部屋ではなく、扉によって患者の居住スペースとはっきりと区切られています。

で、扉を叩いて詰所に入れてもらい、「女性部屋にいるのはつらいです」というお話をさせてもらいました。そうしますと話を聞いてくれた看護師氏2名が「その旨、明日にでも看護師長と相談します」と言ってくれまして、当夜はそのまま就寝。

病院の朝は早いです。6時には検温がはじまります。その朝、検温よりも早く風のように看護師数名がおじさんのベッドにやってきて言いました。

「部屋を移動します」

棚に入れていた荷物も寝ていたベッドのシーツも手早くその場から持ち去られて、隣りの男性部屋の入口にあった空きベッドに移されます。おじさんは慌てて後を追います。

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さっきまで寝ていたベッドに敷かれていたシーツが移動先のベッドに張り直されて、荷物も全部新しいベッドのわきに。おじさんは歩いただけ。疾風怒濤の移動術。あっという間にことは終わり、何ごともなかったかのようにおじさんは男性部屋の住人に。呆気にとられたのはおじさんです。

視野のお話に続く

という次第でおじさんは無事に自認の性にあった部屋に収まることができたんだけど、読者のみなさんは何だかすわりのよくない気持ちになっていないでしょうか。何だか不安ですよね? このときのおじさんもそうでした。だからおじさんはもう一度看護師詰所に行きました。

そのときにしたお話は、また次回に。乞う次巻。

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話が飛んで埼玉〔個人史16〕

ごきげんよう、冬用のライディング・グローブを選びに選んで買ったら、防水性や耐久性は望み通り高かったのに、肝心の防寒性がさっぱりでがっかりのおじさんです。

前回からお話ししているのは、ちょうどおじさんの人生のターニングポイントです。お金に汲々としながら長時間労働で何とか性別適合手術の費用を貯めようとしているところ、身体が動かなくて出勤できなくなりました。

それまでお世話になっていた主治医は当てにできなくなりました。新たに別の病院に縋ってみたところ、そのお医者が下した診断は。

すぐに(遠くの)病院へ

具合が悪いという予兆があったので相談したにもかかわらず、主治医の言う通りにしていたら動けなくなってしまったので、おじさんは体調不良の隙を見て別の医者に助けを求めました。小柄な女性のお医者はおじさんの訴えを一ト通り聞くと、ずばり言いました。

「入院しましょう」

おじさんが訪ねた病院は駅前の小さな個人医で入院施設はありません。つながりのある県立病院を手配してくれたのですが、その病院は人気(?)の病院で、病室が空いていることが少ないのです。

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しかしタイミングがよかったのか、ちょうどベッドが空いたというので、このように言われました。「入院の用意を一式持って、明後日その病院へ行ってください」。

ちょ待って、明後日?! しかも地元ではなく、ふたつ隣りの市まで行かなくてはなりません。遠いよう。

よもや入院とは考えてもいませんでしたし(怖いことに、身体が動かなくなったというのに「入院するほどの不調ではない」と思っていたのですな)、会社にもその旨の承諾を得なければならないし、あたふたします。それに、お金がなくて汲々としている状況ですから、入院の費用なんてものもありません。

そう訴えますと、「お金がないなら支払いは待ってもらえますし、生活保護という制度もあります。仕事を休めないなら辞めて入院しましょう」と医師。つまり、仕事を辞めてでも、生活保護の制度を使ってでも、今すぐ専門の病院に入院しろ、ということです。ああ、そんなに状態が悪いんだなあ、とこのときやっとおじさんは思いました。

埼玉医大病院の話

見出しを見て「埼玉医大に入院したの?!」とびっくりしてしまった人もいるかもしれませんが、そうではありません。おじさんは関西の外れ在住で入院したのも同じ県内です。

これから入院のお話をしようというところなのですが、会社勤めをしている間に性同一性障害の治療をはじめたいがどこへ行っていいかわからず、埼玉医大まで行ったお話をしておいた方がいいのかな、と思いまして。話があっちこっちで申し訳ないのですが、このお話をしておきます。今お話ししておかないと忘れそうなので(老)。

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動けなくなる半年くらい前だったでしょうか。おじさんが住んでいる関西地域での性同一性障害の治療機関(まだ「ジェンダークリニック」という言葉がなかったように記憶しています)が一向に見つからないので、思い余って当時の性同一性障害治療の中心人物だった埼玉医大のH教授に電話をしたのです。

そこで問われたのは「どうしたいのか」「どうなりたいのか」です。いきなりそんな風に問われて、どう答えていいのかわからずにしどろもどろしていると、話にならんとばかりに間もなく電話は切られてしまいました。

H教授は「性移行をすることによって、どのように生きていこうとしているのか」ということをお訊ねだったのだ、といまならわかるのですが、当時のおじさんはわからなかったのですね。だから答えられず、多忙なH教授は早々と受話器を置いてしまったのです。

しかしおじさんはわかっていませんし、苦手な電話をやっとのことでかけても当を得た回答は得られなかったし、これは直接お会いするしかない、と考えて埼玉まで仕事を休んで出掛けたのです。新幹線に乗るほど裕福ではないので、夜行バスと始発電車を乗り継いで9時間だか10時間だかかかって行きました。

ジェンダークリニック黎明期

内性器摘出術を、おじさんの母はおじさんに先駆けて受けていました。母はトランス男性だった訳ではなくて、子宮筋腫という病いを患っていて、その治療として全摘出を選択したのでした。

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そのときの入院機関は1週間、費用は保険が効いて10万円ほどでした。術式は性同一性障害の内性器摘出術と何ら変わりません。

てことは、お医者に融通してもらって適当な病名をつけて手術してもらえばいいんじゃね?

などと考え、ホルモン注射をしてくれているお医者に相談し、そこから紹介され紹介され、辿りついた大阪の病院でそのようにしてくれるというお医者に出会ったのです。しかし、そのお医者が言うことに。

「縦に開けるか横に開けるかでその後の手術に影響するから、どっちがいいのか専門の先生に訊いてきなさい」

という訳でH教授にそれを訊ねました。怒られました。「そんなことしたら、下手したらその先生の首が飛ぶぞ」。

当時は性同一性障害の外科的治療が国内ではじまったばかり。専門の医師でもない限り、たとえ医者でもよくわかっていない場合がほとんどだったのです。それに、ブルーボーイ事件という先例もあります。H教授はそれをご心配だったのです。

問診でおじさんが要治療ということも把握してくれて、お叱りの上で関西で性同一性障害の治療をしている病院への紹介状をその場で書いてくださいました。当時、精神科だけ治療に関わっていた近畿大学医学部附属病院です。

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渡りに船で近大病院へ行き、地元から片道90分ほどかけて月に1回通いました。毎月1回仕事を休む訳です。もちろん会社に厭がられましたが、それに構っている場合ではありません。

半年ばかり通って、一応、性同一性障害の診断は下りました。しかし、既にうつ病を患っていますということを伝えますと、担当医から「うつ病をなおしてから性同一性障害の治療をしましょう」などと言われ、治療は一旦終了。

ここからどうしていいやら。そうこうしているうちに、おじさんは動けなくなったのでした。て訳でここから入院のお話に戻ります。

受診した日の翌々日に二つ向こうの市にある病院に入れと言われたおじさん、当時はまだ戸籍上は女性でした。男性として社会で生活していましたが、つまり保険証の上でも女性です。入院したおじさんはどうなるのでしょう。

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身動きできずにいのちの電話〔個人史15〕

ごきげんよう、食事はきちんと摂っているのにいつもお腹が空いているおじさんです。

前回までお話ししていたのは、目は覚めているのに身体を起こせなくなったというお話。仕事に行かなければならないのに身体が動かない!仕事に行かなければ給料がもらえなくて、家賃も払えないぞ。どうするおじさん? どうする!

動けない朝

朝、目が覚めると何となくゆううつで、それでも仕事は行かなければならないし行くつもりなので、起き上がろうとしました。が、起き上がれません。

みなさんは仰向けに寝ている姿勢から起き上がるとき、どんな風にしますか。まず横向きになるよう寝返りを打ちますか。それとも、そのまま正面に身体を起こしますか。いずれにせよ、上体を起こすにはまずはお腹に力を入れなければなりません。「んっ」と一瞬、腹筋に力を込めますね?

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その「んっ」という集中ができない。力が入らない。じわじわ動こうにも身体全体に鉛の毛布がかかっているかのようで、重くて動けない。こういう次第で、起き上がれないのです。

起き上がれないとどうなるかと言うと、仕事に行けません。とにかく起き上がらないと仕事には行けない、しかし起き上がれないなら、これはもう休むしかありません。取り敢えずは始業前に「休みます」という届出をしなければ現場の人に迷惑がかかります。

しかし、床と固定電話は少なくとも5歩は離れている。時は2000年。移動式電話は既に登場していましたが、まだ固定電話の方が主流で信用があった頃(余談ですが、当時の求人には携帯電話のみの人お断り案件が結構あったのです)。

さいわいなるかな、おじさんはこの頃PHSユーザでした。携帯電話を持つほど裕福ではなかったのでPHSは有難かった。携帯電話は端末も通話料も高額で、学生やプアな人はPHSかポケベルを持っていた時代です。たった20年前なのになあ。

腕や脚も重くて持ち上がらないけど、床の上をすべらせることは何とかできたので、寝所のそばに置いてあったPHSを取り、会社に電話をかけました。声を出すことができたのがさいわい。動けない声も出ないとあっては誰かに助けを求めることもできません。

いのちの電話

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欠勤の届出をしたのはいいが、後はどうすればいいだろう。て、どうしようもないのだけど。動ければ医者に行くのだけど。おじさんには心当たりがありました。この頃、おじさんは既にうつ病の診断を受けていて、数週間前から気が重くなったり身体が動きづらかったりしていて、主治医に相談していたのです。

主治医は「あなたは仕事へ行けるから、行きなさい」と言うばかりで、以前と同じ投薬を続けました。その言葉に従って服薬しつつ仕事していたのですが、とうとうまったく動けなくなったのでした。

動けないものはどうにもなりませんので、ずっと寝たままです。午を過ぎ、夕方になり、日没を迎える頃、ようやく身体を起こすことができるようになりました。そして深夜には普通に動けるようになったので、明日は出勤できるだろうとおじさん自身が思ったのです。

しかし翌朝。同じように鉛の毛布を被っている状態です。これが3日4日と続きまして、いよいよおじさんは怖ろしくなってきました。欠勤は即ち欠金です。生活費がなくなっていくのです。生活の危機。もしかしたら生命の危機。お金がないと生活できないし生活できないと生きていくこともできません。

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身体が重怠くなるとか目眩がするとか、そんなことはうつ者にはよくあることです。人によってはお腹が痛くなったり関節が痛くなったりもあるようです。こういった症状を「甘え」と言ってしまう人が割りとたくさんいるんですが、甘えたら痛くなったり怠くなったりするなら甘えたりしないっつーの。痛いのも怠いのもしんどいんだから。仕事に行けないのもちょー困るんだから。

そういった厄介な症状が出るうつ病を緩和させるために、今度は主治医ではない別の医者に相談したいのですが、そうするためには新たに病院へ行かなければなりません。しかし初診の精神科へ行くには明るいうちに動けなければなりません。それができるなら仕事にも行っているでしょう。

どうすればいいの。

うつ病ほか精神疾患はだいたいが思考能力を半減させてくれるので、ものも碌々考えられません。3日目だか4日目だかの午前中、欠勤届の電話をしたおじさんは「いのちの電話」に相談してみました。動けないので仕事にも病院にも行けません、どうすればいいでしょう。「いのちの電話」のお姉さんはこう答えてくれました。

「病院へ行ってください」

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いや、病院に行けなくて困ってるんだよおおお!

身体が動かなくて病院にも行けないんです、と繰り返すと「いのちの電話」のお姉さんも繰り返します。「病院へ行ってください」。この言葉を3回聞いて、おじさんは電話を切りました。とほほ。

(「いのちの電話」の名誉のために付け加えておきます。現在の「いのちの電話」は相談員養成講座を開いてきちんと相談員の研修をしているので、こんな対応はないそうです)

ようやく病院へ行く

1週間ほども欠勤してしまったでしょうか。毎日動けないのだから毎日休むしかありません。そして日没頃から少しずつ動けるようになって、「明日は大丈夫かも」と思うのも同じです。しかし明日はいつも大丈夫ではなかった。

が、数日して、日没よりも早い時間に動き出せる日がありました。「いまだ!」とばかりに病院へ行きました。今度はそれまで通っていた病院ではなく、友人が通っていて「ここの先生はいいよ」と行っていた病院です。

はじめての病院でおじさんはどのような診断を受けたのでしょうか。乞う次巻。

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お金がない〔個人史14〕

ごきげんよう、天ぷらそばにはえび天よりもいか天を選ぶおじさんです。

前回はお金が必要になってアルバイトをはじめた話でした。生まれたときに女児と判定されたおじさんがはじめて男性として働こうとして失敗したお話でもありましたね。

なぜお金が必要になったかと言えば、性別適合手術を志したからです。その費用は、当時言われていた額はトランス男性の場合500万円程度というもの。生まれたときから貧乏という病に冒されていたおじさんには幻みたいなお金です。

おじさんはどうやってお金を調達したのでしょう。長い道程のお話のはじまりです。

お金がない

おじさんは生まれつきの貧乏でした。

貧乏というのは遺伝するようで、おじさんの親もきょうだいも貧乏です。そして貧乏は不治のようで、おじさんの親は幼い頃から裕福だったことがないそうで、おじさんやおじさんのきょうだいも生まれてこの方裕福だったことはありません。

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どれくらい貧乏かというと、比喩ではなく貯金がない。貯金している場合じゃない。会社員時代に銀行口座の残高が25円しかない、ということがあって、その話を当時の同僚にしたらば「うそやろ」なんてことを言われたのですが、そんなことはしょっちゅうなのです。

おじさんは職を転々としがちでしたが、会社員を続けていた時期もありました。しかし、おじさんが勤めていた先というのは、給料がいいと社風がおじさんに合わなくて、おじさんに合った職場だと給料がイマイチ、という型から外れることがありませんでした。

おじさんは役職手当をもらっていたことがあります。その頃は残業を毎日3時間して、役職手当がついて、一ト月の手取額が14万円あるかないかでした。非常に乏しい。賞与が最大1箇月分でした。1箇月分というのはもちろん、残業代だの役職手当だのを除いた額です。乏しい。

そんなでしたから、性別適合手術を受けようと決めてからの生活は大変厳しかった。当初は実家に住んでいましたのですが、給料は全額家に入れていました。そこから小遣いをもらうという制度になっていまして、さらにそこから貯金をしなければなりません。

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しかし、通勤費だとか昼食代だとか、そういった費用も小遣いから出さなくてはなりませんから、貯金もままなりません。貧しい。

切り詰めて切り詰める

それでも「塵も積もれば山となる」と言いますから、僅か100円でも10円でも1円でも、隙あらば貯金箱に放り込んでいました。貯金箱と言っても「貯金箱」を買うのではなく、空のペットボトルに切り込みを入れて貯金箱代わりに使っていたのです。

それを何本も貯めるようにしていました。銀行に入れたらATMから引き出して使ってしまいそうだったので、使わないかたちで持っている方がよかったのです。

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出費をできるだけ抑えるため、外食は一切しないことにしました。買い食いなど以ての外。しかし当時のおじさんはコーヒーがとても好きで、缶コーヒーを飲みたいと思うことも多かった。だから、自動販売機の前で立ち止まることも多かったです。

当時はまだ100円で缶コーヒーが1本買えました。硬貨1つチャリンと入れれば缶コーヒーが出てきます。1回くらい買ってもいいよね、とチャリンと入れそうになることもありましたが、それを10回繰り返せば1000円、100回繰り返せば1万円になります。

逆に言えば、缶コーヒーを10回我慢すれば1000円、100回我慢すれば1万円が貯金できます。

10分15分と「飲みたい」と「我慢」の葛藤をして、やっと自動販売機から立ち去ることができたときは、自分を讃えました。帰宅して貯金箱にチャリンと入れたらガッツポーズです。

荒んでいく

やがて実家にはいられなくなってひとり暮らしをはじめると、小狡いことをするようになりました。その頃の職場は大企業の敷地内での下請け業で、おじさんがいた現場も設備がよく整っていました。トイレはいつもきれい。 

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トイレットペーパーが切れているなんてこともなく、いつも充分な数が補充されていました。おじさんは一ト月に1回くらい、それを失敬していました。泥棒です。犯罪です。でも、当時はたいして悪いことには思えずにいました。「貧すれば鈍す」とはこういうことです。

それだけでなく、自宅での排便をできるだけ控えて、職場で済ませるようにしていました。自宅で水洗とトイレットペーパーを使わなくて済むように、です。誰かと食事に行っても、まとめて払ってくれたときは請求されるまで支払いをしらばっくれていました。「貧しいものが多くを持つ者からいくらかもらって何が悪い」というようなことを考えていました。

あるとき、学生時代からの友人が牛丼をおごってくれたことがありました。そのときはほんとうに申し訳なく思ったので「悪いね」と言ったらば、友人は「いいよ、300円(当時の価格)くらい」と言いました。そのとき、おじさんは少々憎悪を感じました。「300円『くらい』って言いやがったな」と。

おじさんの心の闇がどんどん深くなっていくのがわかりますか。お金の余裕がないと気持ちの余裕もなくなって、こんなことにしまうのです。気持ちが荒んでしまうのです。

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こんな汲々とした生活をしていたせいか、それともほかの原因があったのか、おじさんは性別適合手術を受けようと決めてから約4年ののちに動けなくなりました。

起き上がれない

貧乏窮まったおじさんは起き上がれなくなりました。目が覚めると既に疲労困憊で、身体が鉛のように重くて腕を上げることもできません。起き上がれないので仕事にも行けません。仕事に行かないと生活費すら得られません。どうしよう。

さて、動けなくなったおじさんはどうなるのでしょう。つらい話ですが、続きは次回。

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アルバイトで学んだこと〔個人史13〕

ごきげんよう、「眼鏡を外すと目が数字の『3』になる人」になってみたいおじさんです。

前々々回の予告を前回で果たすという周回遅れの展開で前回は仕分けアルバイトの面接のお話をしました。というこの一文は多めに押韻していてラップのようでいいでしょ?

秋の終わり頃にはじめたアルバイトは年末の忙しさを視野に入れたものだったんですよね。いまでもネコマークの運送屋さんの12月はオニのよーに忙しいのです。その運送屋さんで経験したことをお話ししましょう。

プレ手のひらターン

世を忍ぶ仮の女性として日勤した後、男性としてアルバイトに出るという生活がはじまりました。このとき、おじさんははじめてまったく男性として人前に出るという経験をしたのです。

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それまでは窮めて男性風の、それでも女性だった訳です。おじさん自身がやってることというのは特に変化はないのですが、周囲の人のおじさんに対しての行動が大きく変わってくるのです。

お話が前後しますが、以前このブログでもお話しした工場での手のひらターンエピソードのように、自分自身が同じでも、周囲の人たちが捉え方によってコロッと態度を変えて接してくることというのは、割りと多くあるのですね。ネコマークの職場でも似たことがありました。

男性として経験がはじまる

ともあれ、おじさんは男性として採用されました。男性として働きはじめることになります。工場での手のひらターンの経験よりも、5~6年前のお話です。

基本的にこの会社には制服があるのですが、試用期間ということもあり、最初は私服のまま就業していました。本業の織物会社での服装のまま、こちらでも働くということです。

同じようにアルバイトに入った人がもう一人いました。当時まだ何とかおじさんではなかったおじさんよりも15歳くらい年長かな、というくらいのおじさんです。もともと個人で運送業を営んでいる人ですが、仕事が少なくなってきたのでアルバイトに来たのだとか。平成不況の只中だったので、この人のような人はいくらもいたのです。

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この同僚のおじさんを仮にMさんとしましょう。Mさんは小柄でしたが、運送業をしているだけあって体力・腕力と小荷物を扱う技術がある人でした。何より、ガテン系の男性にありがちな乱暴さのない人で、おじさん(筆者)は親しみやすかったのです。

Mさんは自分よりも非力なおじさんを馬鹿にすることはなく、コンテナの上段に荷物を上げようとしてなかなか上がらないおじさんに手を貸してくれたり、働きだした頃が年末の寒い頃だったので、自動販売機で温かい飲みものを買ってくれたり、「おじさんくん(仮名)」と呼んでかわいがってくれました。だからおじさんはアルバイトに行くのが結構楽しかったです。

これまでの当ブログを読んできてくださったみなさんはおわかりのことと思いますが、おじさんは仕事の内容よりも職場の対人関係で仕事が続いたりすぐ辞めたりが決まってしまう人です。そのおじさんが試用期間をまっとうしたのですから、Mさんとは良好な関係が築けていたと言えるでしょう。

また、集荷してくるドライバーのみなさんも、すっかり「男の子」として扱ってくれて、散髪した翌日の勤務などは「男前が上がったな!」などと声をかけてくれてました。男性として集団の中にいるというのはこういうことなのだなあ、なんて思って、とても居心地がよかったです。

ここにも制服の壁

さて、試用期間が終わる頃。年末年始の繁忙期が過ぎた頃でもあります。制服が貸与されました。当時のネコマーク社の制服は、男女ほぼ同型だったのですが、しかし「男性用」と「女性用」があり、おじさんは「女性用」を渡されてしまったのでした。

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一度は返却したものの、担当者にはよくわからないことがらだったらしく、その点はやがてうやむやに。面接担当者かつ事業所の責任者である支店長はいつも不在で、どこに不備不便を訴えていいやら。結局のところ、制服は支給されるものの着ても着なくてもいいものだったらしく、おじさんもMさんも着ませんでした。

そうこうしていると、Mさんの様子が何だか変だ。何だかおじさんへの態度がぎこちないなあ、と思っていたら、Mさんはおじさんを呼ぶときにこんな風に言いました。

「おじさん……さん」

ああ、おじさんの秘密が洩れている。ま、そうですわな。女性用の制服がおじさんに渡されたということは、事務所の人たちはおじさんを女性と認識して、それを共有していたのでしょうから。共有するってことは、当然洩れる訳です。

しかし、Mさんには何の罪もない。いまのおじさんならことの次第を簡潔に話し、Mさんを諭すってこともできますが、当時のおじさんは半パニックです。予想し得たこととは言え、はじめての経験ですから。

 パニック起こしたままでどうしていいかわからなくて、女性扱いされていることがたまらなく厭で、その後3回くらい出勤したもののとても居づらくて、ネコマーク社のアルバイトは辞めてしまいました。

学んだこと

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このアルバイトでおじさんが学んだことは、

  • 履歴書には戸籍上の性別を書く必要はない
  • 秘密にしたいことは自分以外の人に決して伝えてはいけない

この2点です。

履歴書に戸籍とは異なる性別を記載したとして、罪に問われることはほぼありません。問われるとしても「私文書偽造(判コ押した場合は「有印私文書偽造」)」程度で、いきなり逮捕・収監されることはありません。

また、おじさんがこの経験をした頃よりもトランスジェンダー性同一性障害の存在や権利について知見のある人も増えていて、相談窓口もあったりするので、当時よりも更に逮捕・収監のリスクは減っているはずです。

また、秘密については上記した通りで、「ここだけの話」は絶対に「ここだけ」で収まらないのです。誰にも知られたくないことは誰にも話してはいけません。

という教訓を得て、はじめての自認の性としてのアルバイトは終幕であります。トコトコトン。

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スポーツ刈りと坊主とバイト〔個人史12〕

ごきげんよう、読みたい本がどんどん見つかって人生の残り時間が足りないおじさんです。

早速ですが、宣伝です。

絵が描けないおじさんがLINEスタンプをつくりました。日常で頻繁に使いそうな言葉や図を選んでつくりましたので、割りと使えると思います。よろしければお使いください。

タイトルは「毎日使えるおじさんスタンプ」、クリエイターズマーケットで見つかります。リリースほやほや↓

さて、前回はアルバイトに出ることにしたお話をしようと予定しつつ、性ホルモン剤による身体の変化(主に毛について)のお話をしてしまいました。今回こそアルバイトのお話です。

しかしその前に、下準備として髪型のお話を少ししておきますね。では、はじまりはじまりー。

ちょっとおさらい

このブログでもいくらか以前に髪型についてのお話をしましたね。憶えておいでですか? 

この回では、ロングだのパーマだのを経由して、結局おじさんの髪型はベリーショートに落ち着きました、というお話をしました。1997年、おじさん27歳の年までそれは続いたのですが、その初夏にスポーツ刈りにしたのです。

このときの顛末は前々回にお話ししました。同じ人が同じ髪型に整えてもらうのに男性として来店するのと女性として来店するのとで料金が変わるんですよ、というお話でした。

今回のお話は、これに続くお話です。スポーツ刈りにしたその後のお話。

スポーツ刈りと坊主の間には

1997年と言えば、PlayStation版『ファイナルファンタジーⅦ』が発売され、アニメ『ポケットモンスター』放送開始、劇場版『名探偵コナン』第1作『時計じかけの摩天楼』公開、そしてX JAPAN解散の年です。

この年、おじさんはまだ世を忍ぶ仮の女性として織物工場の事務所にいました。肩書きは事務員でしたが、フォークリフトに乗って倉庫管理などもしていました。後々に会社の人に聞いた話によると、仕事内容は男性向けのものだったそうな。

ややこしいようですが、男性のような服装で男性の仕事をしていた女性として勤めていた訳ですが、その人がある日突然スポーツ刈りになって会社に現れます。おじさんも何の予告もなしにその髪型にしたので、会社の人も知らなかった訳です。

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会社の人たちは、男性も女性も何も言いませんでした。出入りの運送屋さんたちも、何も言いませんでした。

その後。

おじさんはその頃既に性別適合手術を受けることを視野に入れていましたので、とにかく貯金をしようとケチケチしていました。だから、髪が伸びてきて散髪の必要が出てきた頃に思ったのです。スポーツ刈りなら家庭用バリカンを使って自分で調髪できるんじゃね?

そこで、やってみました。するとですね、髪を四角く刈るというのは思いのほか難しく手ですね、「あー…」、「ああー!」などと声を上げつつ、あちらこちらのつじつまを合わせようと長さを整えているうちにどんどん短くなってですね……ついにどうにもならない長さになってしまったのです。

どうにもならなければどうするか。丸刈りにするしかありません。という訳で、おじさんは長さ3mmくらいの丸坊主になりました。当然、その髪型で出社することになります。

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すると。出入りの運送屋さんたちが「おー、どうした。出家したんかー?」などと声をかけてくれるではありませんか。社内の人も「何でその頭にしたん?」と訊いてくれました。おじさんは正直に「自分で刈ってて失敗しました」と答えながら、思いました。

スポーツ刈りと丸坊主の間には、いったい何があるのだろうか。

髪の長さとしては両者はたいして変わりません。しかし、はじめてスポーツ刈りで出社したときもその後も、誰も何も言いませんでした。当時のおじさんはまだ実家暮らしでしたが、家族も何も言いませんでした。

しかし、丸坊主になった途端に会社の人も出入りの運送屋さんも、おじさんの髪型に言及しだしたのです。家族は何も言わなかったけど。

スポーツ刈りと丸坊主の間には、いったい何があるのだろうか。いまだにわからないままです。

余計なこと言った面接

そうした過程を経て「餅は餅屋」という言葉の意味を深く理解したおじさんは、再び理髪店のお世話になりながらスポーツ刈りをキープ。その状態でアルバイトの面接に行きました。

週に2回、会社を定時で終えた後に2時間という短時間バイト。ネコのマークの運送屋さんで、荷物の仕分けの仕事です。この頃おじさんは10kg程度でしたがダンベルを使って体操をしていたので、小荷物の仕分けならできそうだと思って応募したのでした。

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このとき、おじさんは生まれてはじめて、履歴書の性別欄の「男」に○印をつけて面接に臨んだのです。そのまま何も言わなければいいのに、「実は性同一性障害で……」てなことを(まだ診断も受けていないのに)わざわざ面接で言ってしまったのですな。

「パス」と「リード」というのを、読者のみなさんは聞いたことがあるでしょうか。トランスジェンダー性同一性障害当事者の間ではたびたび聞く言葉です。「パス」は周囲の人に自認の性として認識されること、「リード」は生まれたときに判定された性として認識されること、と言えばいいのでしょうか。

おじさんの場合だと、「パス」は「他者から男性だと見られて女性だとは思われないこと」、「リード」は「あっ、こいつは女性だぞ」と思われること、です。前にも述べましたように、おじさんはこの頃には公共施設のトイレなんかは男性用を使うようになっていて、うっかり女性用には入れない状況でしたから、リードされる心配なんてしなくてよかったのですが。

それでも何か心配になっちゃったんでしょうね。リードされたら……って。それで多分、わざわざ「自分は性同一性障害で……」なんて言い出したのだと思います。

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面接の方は「ああ、そうですか」と聞き入れてもらえて、そのまま採用となりました。ホルモン注射をしてくれる病院を探すときにずいぶん奇妙なもの扱いされましたから、面接も半分は駄目かもしれないと考えていたのですが、埼玉医大の記者会見から1年経つとこんなに浸透するかなー、という驚きがありました。

このような次第を経ておじさんは、これまた生まれてはじめて「男性として」働くことになるのでした。さて、このアルバイトはおじさんにとってどのようなものだったかと言うと――。

というお話を、次回はいたしましょう。楽しかったんだけどなー、というお話。次回もお楽しみに。

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〈閑話〉声と毛の話〔個人史11〕

ごきげんよう、「一人外食」は全然苦ではないのでたまには行きたいなと思いつつ、行く機会をほぼ逸しているおじさんです。食事だけのために出掛けるのが面倒なんだもん。

前回は、性別移行のお話をしはじめておりましたね。引き続き、というところですが、ホルモン注射をはじめてから知ったこと・体験をまだ書いておりませんでしたので、そのお話をしてから先立つもののお話に移りたいと思います。お付き合いくださいませな。

ホルモン剤と声の話

ホルモン剤を身体に入れると表れる変化のうち、真っ先に出てくるのは声と毛でしょうな。少なくともおじさんはそうでした。

最初、おじさんは注射ではなく、薬局で購入できる「中年以降もこれで元気!」みたいな男性向けの錠剤を服んでいました。サプリメントではなく、薬局でないと買えない医薬品扱いの品です(品名失念)。

そのような錠剤もテストステロンを多く含んでいるので、当時は注射の代用品によく使われていたのですな。現在ではこういうのを使う人もあまりないのだと思いますが。

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▲イメージ画像

それを服んで3箇月くらいかな? その間に2週間に1回50mgという微量でしたが、注射も開始しました。その頃のおじさんは事務の仕事をしていて、電話を取ることもあったのですが、取引先のお馴染みさんに「風邪ひいてる?」などと言われ出したのです。変化の幅はたいしたことなかったのですが、声変わりをしはじめていたのですな。

それから半年もすると、自宅の電話では「奥さまはおられますでしょうか」なんてことをたびたび訊ねられるようになったので、ほぼ男声になっていたのだと思われます。

しかし、ネイティブ男性の変声期のように、短期間で目覚ましい変化があった訳でもなく、じわじわーっと少ーしずつ変わっていったと言うか。自分では変わったのか変わっていないのかわからない変化の仕方です。

カラオケなど歌うのが好きなみなさんは変化に気づきやすいのかもしれません。おじさんは人前では一切歌いたくない人で、かつカラオケに誘われても断っちゃう人なので、余計に変化の実感がないのかもしれませんね。

ホルモン注射と毛の話

さて、もうひとつの変化、毛の話です。男性ホルモン即ちテストステロンを身体に入れると体毛が濃くなる、というのはみなさんご存じのことかと思います。では、「体毛が濃くなる」にはいくつか種類がある、ということはどうでしょうか。

一ト口に「濃くなる」と言いましても、毛がどうなるのかに言及したものにふれたことが、おじさんはありません。ここではおじさんが体験した「濃くなる」を書き残しておこうと思います。

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▲イメージ画像

まず、毛が「増える」。新しく毛穴が増えるのか、これまで使われていなかった毛穴が使われるのかわかりませんが、毛の密度が高くなります。いままで生えていなかったところに毛が生えてきますから、毛は濃くなります。

それから、毛が「太くなる」。以前よりも毛の一本一本が太くなるので、全体的に濃く見えるようになります。

そして、毛が「長くなる」。従来から生えていた毛がもっと伸びて長くなるのです。毛足が長くなって、全体として濃くなります。

この3つを総合して「濃くなる」と言う訳です。これらの変化はこの順番に起きる訳ではありません。また、3つ別々に起きるとも限りませんし、3つ全部起きるとも限りません。順序組み合わせ的なものは個体によるものと思われます。

さらに頭髪に限っては「細くなる」「生えなくなる」というのもあるんですわ。おじさんはつるつる坊主に剃っているので目立ちませんが、やっぱり額の生え際が後退してきています。もともとが剛毛だったので細くなっているかどうかはわかりづらいのですが。

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▲イメージ画像です。

ホルモン剤を摂取しはじめたトランス男性はすね毛の成長をとても気にしますね?
トランス男性のみなさんはトランス男性同士ですね毛を見せ合って毛の成長報告をし合ったことはありませんか?

これも人によるのだと思いますが、おじさんのすね毛は写真に写るようになるまで5年かかりました。薄い体毛って写真や鏡に映り(写り)にくいんだよネ。おじさんの場合はすね毛よりも腕の毛の方が濃いです。

一番困ったのは性毛です。お股の毛ですね。男性ホルモン剤でこの部分の毛ももちろん濃くなります。

ホルモン剤の摂取をはじめるまで、おじさんはジーパンユーザーでした。デニムのパンツですね。丈夫で動きやすくてそこそこお洒落でもあるので、重宝していました。が、ジーパンというのはゆったりサイズでも割りとタイトなんですよね。身体にぴったりしていて、生地は硬めです。

すると。ホルモン剤で太く成長して密集した毛が、身体の中でも特にデリケートな皮膚に押しつけられます。その状態で動きまわると、皮膚と毛が擦れます。1日仕事をして動きまわった後に風呂に入るとですね、毛で擦れたお股がひりひりして飛び上がるほど痛いのです。

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それまでそんな経験をしたことがありませんでしたから、おそらくホルモン剤で毛が成長したせいです。あんまり痛いので、デニム素材のパンツはそれ以来はかなくなりました。現在は主にチノ素材のものをはいています。痛くないです。これはめずらしい体験だったなあと思って、語り種にしています。

あと、注射をはじめてから10年ほど経って気づいたのですが、おじさんは肩や上腕にも淡く毛が生えるようになりました。同じ頃から血も濃くなってきて、主治医から投与量を減らそうと提案がありました。内性器摘出も済んでいるし少量でよかろうと、現在はエナルモンデポー125mgを3週に1回のペースで注射しています。

余計なこと言った面接

さて、割り込んできたホルモン剤のお話はおしまいとしまして、やっとお話を戻します。先立つものを確保するために、おじさんは当時勤めていた会社が残業禁止になったのを機にアルバイトに出ることにしたおじさんは、会社と自宅の途上に中継所がある運送会社の仕分けの仕事をすることにしました。

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アルバイトそのものは学生時代にもしたことがあるのですが、このときはじめてすることがありました。「男性としての」就労です。このとき既にスポーツ刈りだったおじさんは、何も言わなければ相手が勝手に男性だと思ってくれるという状態でした。

日中勤めている会社は「世を忍ぶ仮の女性」として働いているのにスポーツ刈りってどゆこと?!

と思った人もおられるかもしれません。これにもちょっと愉快なエピソードがありましてな。それについては次回にお話ししましょう。今回はほとんどホルモン剤の効果と毛の話でしたな。うそ予告になっちゃってごめんねーん。

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性別移行の狭間のお話〔個人史10〕

あけましておめでとうございます。大みそかの昼食にうっかりそばを食べてしまったおじさんです。

「正月は死出の旅への一里塚めでたくもありめでたくもなし」と一休禅師は詠いましたが、それを踏まえてもおめでとうなのが正月であります。みなさんにも私にもよい1年がありますように。

さて、埼玉医大答申の報道と運命の出会いをしたおじさんでしたが、当時はまだおじさんもおじさんではなかったので、若さとその勢いで以てトランジションをぐいぐい進めていきます。どんな体験と行動をするのか、見て参りましょう。

「世を忍ぶ仮の女性」のおしまい

1996年秋。おじさんはトランジション(性別移行)を決意しました。最初のうち、何をしていいのかわからないのは、どんなことも同じ。まずは情報収集です。

とは言っても、当時はまだインターネットは普及しておらず、電話回線を使用してのパソコン通信が主流だった頃。情報の入手先がとても少なかった。

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おじさんも専ら『FTM日本』に頼りきりでした。作家でトランス男性でもある虎井まさ衛氏が、日本のトランスジェンダーらのために情報提供・情報交換できる場としてのミニコミ誌を季節に1回(年4回)発行してくだすっていたのです。

そこには当時の最新の情報、医療や医療器具、学説などの知識と、当事者同士の情報交換――関西ではこの病院がホルモン注射をしてくれるとか、注射の相場は○○円とか――もろもろの情報がありました。この冊子で基礎知識を得て、情報を得て、ほかの当事者たちが何をしているのかを知り、自分の方向性を探っていきました。

ただ……この頃のおじさんは若かった。自分で「もう若くはない」と考えるくらいに若かった。若さは焦燥を生むのですな。

若い未治療のトランスさんがたいていそう考えるように、おじさんも「早くホルモン治療をはじめたい」、「早く性別適合手術を受けたい」と思うようになりました。若いもので「早く」てのがつくんですな。慌てなくても、自分は逃げない(はず)のに。

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そして、手に入る情報が増えるごとにわかっていくのです。性同一性障害の治療には、とにかく金がいるということが。

そういった理由で、おじさんは会社が引けた後にアルバイトに出ることにしたのです。生まれてはじめて履歴書に「男」と書いて。世を忍ばない男性としての生活が、部分的(パートタイム)ながらはじまるのです。

同じ人同じ施術で料金変わる

実を言うとですね、アルバイトの面接を受けに行くよりも早い時期に、おじさんは髪型を変えていました。学生時代からとんと変わらなかったベリーショートをスポーツ刈りにしたのです。後頭部5厘刈りの、一番短く刈るやつです。

馴染みの理髪店でスポーツ刈りにしてもらったのですが、ここは中学生のころから通っていたので、おじさんの世を忍ぶ仮の女性時代をよく知っている訳です。仮にも女の子をスポーツ刈りにしてしまっていいのかを戸惑っていたらしく、理髪師さんはバリカンを入れる前に「ほんとにいいの?」と何度も聞いてくれました。

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▲スポーツ刈りおじさん

もちろんOKで刈ってもらったのですが、もしかしてこれ毎回訊ねられるのかなと、あまり理髪店では話しかけられたくないタイプのおじさんは、次回からは黙ってすわれば勝手に指定の髪型になる系のお安い理髪店に移ったのでした。

するとおもしろいことがわかりました。

女子の立場で理髪店に行くと、顔剃りをするか否かを訊いてもらえます。そして、顔剃りをお願いすると顔剃り料金が割り増しされます。男性として理髪店に行くと問答無用で顔剃りされて、顔剃り料金は調髪料金に込みなのです。

つまり、同一人物がまったく同じ内容のサービスを受けても、女子としてサービスを受けると数百円余計に支払わなくてはならないのです。おもしろいなー。

さらに後に、(男性の立場で)現在のおじさんのようにつるつる坊主に剃髪してもらうと、女子の顔剃り料金込みの値段と同じ調髪料金を支払うことになるということがわかりました。おもしろいなー。

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▲現在のつるつるおじさん

だから、性別で料金を変えているのではなく、「調髪」と「剃り」の比率で料金が変わっているのですね、多分。鋏で揃えるより剃刀で剃る方が余計に料金がかかるとか何とか。じゃないかな。しらんけど。

こんな風に、女性の立場・男性の立場の両方を経験するトランスジェンダーだからこそ知ることができる事実や体験できることなんてのもあって、トランスジェンダーに生まれるのも悪いことばっかりじゃないね、と思うこともしばしばです。

先立つものはいつも先立つ

 そんな体験もしつつ、そしてこのブログの最初の方に書いた「ホルモン注射をしてくれる病院を電話帳で探す」というちょっとした苦労もしつつ、おじさんは「自分には性別適合手術が必要」という案件に行きつき、「手術のためにはお金が必要」という事実に行きつき、「お金を貯めるためには余計に働かねばならない」という現実に行きつくのです。

先立つものはいつもお金。お金はいつも先立つもの。先立つものを確保するためにおじさんはこれから苦難の道を進むのです。蛮人とか未来少年とか名探偵とか(それはコナン)。

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埼玉医大答申とトランジション〔個人史9〕

ごきげんよう、好きでアロハシャツを着ているとコワい人だと思われ、好きで作務衣を着ていると僧侶だと思われ、しかしてその実態は神秘のベールにに包まれている(と思っている)おじさんです。

前回、おじさんはミシンが下手、というお話をしましたが、その後、特に練習した訳でもないのになぜかちょっと上手になっていまして、写真のような被りものを縫ったり、最近ではマスクを縫ったりできています。

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前回までは、転職に転職を重ねるおじさんは社会の中で上手に働けない人なのだった、というお話をしてきました。すべて世を忍ぶ仮の女性時代のお話です。今回からはトランジション、性別移行期のおじさんのお話をしていきたいと思います。

思い出の1996年

1996年。読者のみなさんは既に出生済みでしたか。「生まれる前だわー」という人も少なくはないのでしょう。おじさんはまだおじさんじゃなかったのに「もう若くはない」などと勘違いしていた頃です。

この年に何があったか。このブログでも何度かお話ししたかと思いますが、日本ではじめて埼玉医科大学病院倫理委員会が「性同一性障害の患者に対する医学的治療は正当な医療行為である」(概略)という答申を出し、それが新聞報道された年だったのです。

一般紙でもスポーツ紙でも「日本で『性転換手術』が可能になった」と報じられました。しかしこのときは、多くの人々の関心は「手術でつくった人工ペニスでセックスは可能なのか」といったことに集中していて、なぜ外科手術が必要なのかなどということにまで深く突っ込んだ記事はありませんでした(と、おじさんは記憶しています)。

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しかし、埼玉医大が答申の発表記者会見を開き、このことが広く報道されたことで「性同一性障害」という言葉、そして概念が広い範囲で知られるようになったことは確かです。この報道の後、当事者を取材したドキュメンタリ番組がテレビでいくつか放送されて、おじさんもそれを見ました。

その頃のおじさんは、世を忍ぶ仮の女性でいることがそろそろ窮屈に感じていました。そして文章を書くこともずいぶん早く志していて、「男性として生きることはできないけれど、せめて紙の上でだけは男性として生きよう」ということを考えていて、「逆・紀貫之」していました。

紀貫之、知ってますよね? 男性なんだけど「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり」などと女性の振りをして仮名文学を書いて広めた平安の人です。紀貫之兄さんは『土佐日記』を書くときに女性として書いた訳ですが、成人前辺りのおじさんはそんな感じで、「この作者は男性です」の体で文章を書くことにしていました。

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そう、おじさんは「男性として生きることはできないけれど」と何の根拠もなく思っていたのです。そしてそれはおじさんの思い込みでしかなかったことが、この頃見たドキュメンタリ番組でわかったのです。番組の中には、女性として生まれたけれど男性として働いて生活している人が、実際にいました。

これを見ておじさんは「できるんだ」と気づき、自分でもしようと思い立ったのです。

父からの謎情報とトランジション

ちょっとさかのぼったお話をします。1996年から20年ほどさかのぼった、ある日の夕食どき。家には不在がちの父が食卓にいて、テレビにはカルーセル麻紀さんが映っていました。ご存じですよね、カルーセル麻紀さん。

1970年代初頭、カルーセル麻紀さんはモロッコという国に渡り、当時で言う性転換手術を受けて1年ほど休養して芸能活動に復帰したのです。映っていたのはその復帰報道だったのかな?

それを見ながら我が家は食事をしていたのですが、その時に父が謎情報を披露したのです。
「男から女になる手術はできるが、女から男になる手術は現在の医学では不可能」。

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どこに情報ソースがあったのか、そもそもソースもない又聞き話だったのか、それとも当時の事実だったのか、いまとなってはそれもわからないのですが、これを聞いた当時の幼いおじさんは、これまたなぜかそのまま信じてしまったのです。なぜ素直に信じた。

その情報がアップデートされないまま、おじさんは1996年を迎えてしまいます。そしてその情報が事実と異なることをようやく知ったのでした。1996年現在、国内で手術も可能になったし、生まれたときに判定されたのとは異なる性として生きることは可能なのです。

新聞やテレビでの埼玉医大病院関連の報道とドキュメンタリ番組と、そこからさらに情報を求めたおじさんは、1冊の本を買いました。『女から男になったワタシ』(虎井まさ衛青弓社)です。米国で性別適合手術を受けて帰国した、日本ではじめてのオープンリートランスマン作家・虎井氏のご著書です。

虎井氏は埼玉医大病院の答申があった少し以前から、ご自身の体験やセクシュアルマイノリティに関連した記事を週刊誌に書いたり、インタビューを受けたりなさっていて、答申の報道に際しても新聞各紙で顔出し・名出しでコメントなさっていたので、ご著書を探し当てるのは容易でした。

虎井氏ご自身の個人史や性別適合手術の経験などが書かれたその本の末尾、奥付に添えられていたのは、これも日本初のFTM関連のミニコミ誌『FTM日本』の案内。早速手紙を送りました。

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▲当時おじさんが使っていたPHS(PALDIO 312S)

当時はようやくPHS(携帯電話の簡易版?)や携帯電話が普及しはじめた頃で、どちらかと言うとPHSの方がポピュラーで、おじさんもPHSユーザでした。その頃、PHSから送受信できたのは、カタカナ20文字限りのメッセージのみ。電子メールはまだ一般的ではなかったのです。

まだまだ通信の中心は郵便だった(ラップっぽい)時代。「メール」と言えばエアメールのことだった時代です。手紙を出して、早ければ1週間から10日くらいでお返事が届きます。そうして秋のとある日に『FTM日本』最新号を入手。ここからおじさんのトランジション(性別移行)がはじまったのです。

次回からはおじさんがトランジションに際して実際にはどんなことをしたのかをお話ししていきましょう。

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縫いもの会社でなぜか嫌われた話〔個人史8〕

ごきげんよう、年内に取得を目標としていた2つの資格試験の両方に合格して浮かれているおじさんです。今年いっぱい浮かれておこうと思います。

さて、おじさんががんばっても駄目だった対人のお話をする予定でしたね。おじさんにとってとても厭な経験で、だからお読みくださるみなさんも厭な気持ちになってしまうかもしれませんが、おじさんの女性への偏見が強固になってしまったエピソードでもありますので、記しておきます。

厭な気持ちになるのは厭だなー、という方は、このお話が終わるところに赤い色をつけておきますので、そこまで飛ばしてください。

縫いものの会社へ

まだおじさんが世を忍ぶ仮の女性として過ごしていた頃でした。ある職場を退職した後、早く新しい仕事に就かなければと焦ったり気に病んだりで頭がぐるぐるしていたところに、かつての職場で親しくしてくれていた人が、御父君が経営している会社で求人があるから来てみないかと声をかけてくれました。

その会社は洋服などの縫製の会社で、いわゆるお針子さんを募集しているのだとか。

しかしそもそもおじさんは縫いものが苦手でした。高校生の頃、家庭科でスカートをつくりましたが、授業中にロックミシンという布の端を裁ち落としながらかがり縫いをするミシンを使っていたところ、見まわっていた先生が「見ていられない」と言っておじさんから課題のスカートを取り上げ、自分で縫ってくれたというエピソードを持っています。

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つまり、おじさんは絶望的にミシンが下手なのです。真っ直ぐ縫っているつもりでも蛇行していたりするのです。布2枚を重ねて縫っていたはずなのに1枚しか縫えていなかったりするのです。布2枚を重ねて縫っていたはずなのに3枚しか縫えていたりするのです。

しかし、知り合いの会社でもあるし、自宅から比較的近所でもありましたし、何より社長面接を受けてみますと「未経験でも下手でもやる気があればOK」とのこと。上手でなくても仕事にしてしまえば毎日やることになるし上手になっていくのではないか、という希望的観測にも助けられつつ、取り敢えず勤めはじめたのです。

縫いものの職場ということで、現場は女性ばかりでした。3~4歳年長かしらという人から50歳は年長かしらという人まで、全部で6人。うち2人が40代半ばくらいのパートさんでした。そこへおじさんと以前の職場での同僚の、20代の2人が新人としてお世話になることになりました。

理由がわからないまま

縫いものは確かに下手くそなので、できるだけ早く上手になろうとがんばっていたつもりです。実際に上手になったかどうかは別として。間違いなく真面目に勤めていました。これは自信があります。

当時、20代も半ばを過ぎた頃でしたので社会常識もそれなりに身について、挨拶や掃除やお茶くみなども率先してやっていましたし、仕事も可能な限りのことをして、ごくごく当たり前に勤めていました。必要なことをきちんとやって、余計なことは一切しないでいました。できるだけ気をつけて、そのようにしているつもりでした。

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しかしおじさんは、なぜか40代パートの2人にえらく嫌われたのでした。原因はわかりません。挨拶の類いは必ずこちらから丁寧にしていたし、仕事は持ち場が離れているので邪魔のしようもないし、この2人についての噂話なんてのも一切したことがありません。

だというのに、こちらから「おはようございます」を言っても「おつかれさまでした」を言っても無視されてしまうし、上司からのお使いをして資材を手渡しても無言で奪われるようなありさま。おれが何かしましたか、と常々思っていました。思っているだけじゃなくて直接訊けばよかったのかもね、といまになって思っています。

職場のレクリエーションで会社の庭でBBQをしたときなど、おじさんは指示なくして片付けに着手、片付けが終わればまだ終わっていない箇所の手伝いに行き、手伝える場所がなくなれば掃除をして、屋外がすっかり片付いた後、洗い物に立っている40代コンビに「何かお手伝いすることはありませんか」と訊ねました。

このときまでおじさんは、挨拶やら何やらを無視されても、自分の声が小さくて聞こえていなかったのかもしれない、と考えていました。

だから、このときは40代コンビが水仕事をしていたこともあったし、かなり声を張って訊ねたのです。離れた場所ではなく、すぐそばに立って声をかけたのです。でも返事がないのでさらに一歩近づいて、さらに声を大きくして「お手伝いしましょうか」と言いました。やはり返事はありません。

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だめ押しに半ば怒鳴るような勢いで「お手伝いは必要ないですか」と声を張りました。40代コンビが洗い物をしているのは屋内ですから、聞こえないはずはありません。それでも、40代コンビはこちらを振り向くことすらありません。これは間違いなく意識的に無視されてるんだ、と確信しました。

考えてみても無視される理由が思い当たりません。それでも自分が嫌われているのだろうことははっきりとしました。途端にそれが負担になって、おじさんはそれから次第に会社への足が重くなり、1ヵ月も経つ頃にはとうとう会社に行くことができなくなってしまいました。だってうつ病持ちだもん。

ことの次第を社長と社長のご息女(つまり、かつての職場で親しくしてくれていた、仕事を紹介してくれた人)とに話しましたが、どうにも先任である40代コンビの方が尊重されたようで、かつ精神疾患持ちということで狂人扱いされてしまいました。

状況は変わらなかったので、一緒に勤めはじめた以前の職場での同僚に退職を相談。すると彼女も「私も居心地悪くて辞めようと思ってました」とのことでした。という訳で、もと同僚とは時期をずらしつつも、2ヵ月くらいで縫いものの会社は退職してしまいました。

ヤな人は確かにいる、その一方

前項の例のような「複数人数での明らさまな無視」って、女性特有に思うのですが、そんなことないのでしょうか。すくなくとも1990年代まで、私と私周辺の人々の間でこのような陰湿な態度を取る男性の話は聞いたことがありません。

明らさまな無視、あるいは「つい先刻まで一緒に話していた人が席を外した途端にその人の悪口を言う」とか、「お互いに悪口を言っておきながらその人が来たら素知らぬ顔で仲いい振り」というのも、女性の集団で見かけること一度や二度ではありません。工場などの年配女性がたくさん働きに来ている場所ではたびたびそういう行いに出くわします。

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そのたびに「女てのは信用できねえ」という偏見をおじさんは抱いていたのです。2000年を20年も過ぎた現在では、男性にもこの手の人たちが現れたという話を聞き及んでおりますので、女性だけが悪しきものではない、ということは意識しておりますけども。

こうして女性不信、人間不信を抱えるようになったおじさんでしたが、縫いものの会社を辞めた後、今度は織物の会社に勤めるようになります。布を縫うのではなく、布自体をつくる会社に入ったのですな。

そこにいた先任の女性パートさんがとても親切丁寧に仕事を教えてくれて、「取り返しのつかない失敗なんてないから、失敗してもいいの」、「荷物の引き取りに業者が来ても伝票ができていないと慌てる必要はない、待たせればいいの」とずいぶん気が楽になる教えを垂れてくれて、おじさんはとてもとても働きやすくなったのでした。

ヤな人って確かにいるけど、いい人だっているんだよね。

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という訳で今回は、誠心誠意でおつき合いしようとしても、理由もわからないまま嫌われたり意地悪されたりすることはあるんだという経験と、それによる女性への偏見を持っていたことをお話ししました。厭な経験は厭な思想を生みがちですね。

おじさんの仕事上での厭な経験というのは、今回お話しした一件に集約されてしまいますので、これきりにしたいと思います。次回は、そうですな、たくさんの転職を経て、世を忍ぶ仮の女性を辞める辺りのお話に辿りつけばいいな、と思っとります。

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「婦人」になれずに職を転々〔個人史7〕

ごきげんよう、冬のはじめ頃にいつもすき焼きを食べたくなるおじさんです。

仕事を改めたく何と海上自衛隊の門をくぐったおじさん。練習員課程では小学校入学時以来の性別問題に行き当たったのでした。服装もネックではあったけど、問題は服装だけではなかったなあ。

と振り返る今回の記事です。

教育隊練習員課程

おじさんが振り分けられた班には北海道から九州・鹿児島まで、さまざまな街から若者が集まってきていました。みんな未成年です。ハタチ過ぎているのは班員11名のうち、おじさん含めて3人のみでした。このとき生まれてはじめて「もう若くはない」と思いました。

実際はそんなことはないのだけど、自衛隊(特に練習員課程)は体力勝負と言えるのでね。最年長は出戻り組(一度入隊したけど何らかの理由で練習員課程の途中で辞めた人)の25歳でした。

練習員課程てのは何をするかってーと、まずは陸警備訓練。気をつけ、右向け右、左向け左、まわれ右、敬礼、挙手の敬礼などの基礎動作と隊列を組んでの行進を学びます。これをまる1ヶ月ほど、カンペキにできるようになるまで徹底的に練習します。

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自衛隊だの警察だのに興味がない人は割りと誤解しているのですが、こういった部隊で行われる「敬礼」というのはお辞儀が基本です。しかも浅いお辞儀。「10度の敬礼」と言って、上体を10度だけ前方に傾けます。

深く傾ける「45度の敬礼」は「最敬礼」とも呼ばれ、天皇陛下か亡くなった人に対してのみ行うものです。たとえば上官に深々とお辞儀をすると「まだ死んでない」と言って怒られたりします。手刀を額のわきにかざす「挙手の敬礼」は帽子をかぶっているときだけ行う敬礼です。

といったことを、無意識にできるまでになるよう練習します。その他、海上自衛隊では手旗信号の基礎やカッター(ボート)訓練、執銃訓練などか前期練習員課程(基礎教育)で行われます。おじさんが知っているのはここまでです。おじさんは練習員課程を終えることなく退隊してしまったからです。

おじさんは婦人になりきれなかった

20代前半のおじさんはまだおじさんではなく、世を忍ぶ仮の女性でした。当然、入隊は婦人自衛官として婦人自衛官の練習員課程に入りました。現在は「女性自衛官」と呼ぶことになっているようですが、当時は「婦人自衛官」と呼んでいたのです。海上自衛隊には「婦人自衛官の歌」なんて隊歌に準ずるものもあって、入隊式やらで歌いましたなあ。

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婦人自衛官の制服の基本型はタイトスカートです。高校卒業以来のスカート、しかも着るたびに皺を撲滅しなければならない苦行つき。

普段の訓練は作業服なのでズボンですが、公式の場所や休日に外出する際は制服です。練習員は教育隊の宿舎で生活しますが、教育隊の敷地外へ出るときは必ず制服を着けなければなりません。

制服は一度でも着たら必ずアイロン。自衛官の服には皺があってはいけないからで、外出前には上官による皺チェックがあります。ひとすじでも皺があると外出許可は下りません。

制服を着るたびに直面する「自分は『婦人』自衛官なのだ」という事実。「自分は自衛官になりたがったけど、婦人自衛官になりたかった訳ではない」という気持ち。それらが戦う……つまり葛藤するんですな。

割りきるということができれば、こんないい仕事はなかったのです。定時で終われるし、休日出勤しても必ず代休をもらえるし、完全週休2日制だし、上官の指示に忠実に動いていればいいし(むしろ命令にないことはしてはいけない)、人見知りしがちなおじさんだけど同期入隊の人たちとも仲よくなれたし、訓練はキツいけど身体を動かすことばかりで健康的だし……。

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そういったメリットを考え合わせても、当時のおじさんには「婦人自衛官である」ことが耐えられなかったのです。前期練習員課程が終わるのを待たずに退隊と相成りました。

でもね。ここで辞めずに2任期(5年)もがんばれば性別適合手術の費用なんて、きっとすぐ貯まったんだよねー。部隊暮らしなら家賃も不要で食事も無料、賞与年3回だし。

てことを性別移行を決意する頃から思い直したおじさんは、後に再入隊を目論んで採用試験を受験し直すのですが、バブル期が過ぎて就職氷河期、志願者が増えて試験は次第に厳しくなり、出戻りなんてとても採用にはなりません。おじさんがはじめて入隊したときにはいたんですけどね、出戻り組。

当時の年令制限ぎりぎりまで5~6回受験しましたが、とうとう再び採用されることはありませんでした。

「採用試験のために」を言い訳に

前述したように、自衛官の採用試験は春と秋の2回あります。そのいずれも受験し倒したおじさんは「受験を経て合格する予定なのだから」とずっとパート・アルバイトでお茶を濁してきました。「長期間勤めることもないのだから」と敢えて期間限定の短期アルバイトを選んで就いたりもしていました。

おかげで下記のようにいろんな 触手 職種を経験することになりました。

はじめて「働く」ということをするようになってから持病で倒れてしばらくお勤めから離れるまでの間に、憶えているだけでこれだけのことを経験しました。憶えていないものももちろんあります。

憶えているだけで1ダース以上の職種を経験していますね。このうち3社は正社員として勤めましたが、3社も勤めたってことは長続きしてないってことですな。おじさんの場合は、仕事が厭で転職する訳ではないんです。

正社員にならなかったものは「自衛官になるから」という理由で短期間で終われるものを選んでいたこともあったのことですが、それ以外の理由も当然あります。そのだいたいが、おじさんの タイ人 対人スキルの乏しさにあると言っても過言ではないでしょう。

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前回のおじさんの個人史〔6〕でちらっと申しましたが、おじさんは20歳を過ぎるまでファストフードの店で注文することさえできない人でした。他者と会話することが怖いというか億劫というか、苦手だったのです。

それでも何年か働くうちにだんだん話せるようになって、特にテーマパークのキャストを経験してからは、ときには積極的に自分から話しかけるようにもなりました。だから、新しい職場に入っても、できるだけ先輩・上司諸氏とコミュニケーションを取って馴染もうという努力は(おじさんなりに)しました。

しかし、おじさん側の努力だけではどうにもならないこともあるのでした。おじさんの努力なんてほかの人ができることに比べれば「できて当たり前」のことだったのかもしれませんが、それでもできるだけのことはしたのです。でも駄目だったのです。

どんなことがあったのか。次回はそのお話をしてみましょう。ちょっとイヤな感じのお話をしてしまいますが、次回もよろしくお願いしますね。

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ウカツにエーキョーされて志願の巻〔個人史6〕

ごきげんよう、りんごは生より火を通した方が好きなおじさんです。

長い長い大河シリーズ、おじさんの個人史。いままで通し番号を振ってきましたが、各回の内容に沿ってタイトルをつけることにしました。その方が読む人もおじさんもきっとわかりやすい。よね?

前回まではおじさんの学生時代にふれていた個人史、今回からはたらくおじさんのお話です。

おじさんと仕事

おじさんは、内にこもった子供でした。人見知りがひどく、自分からは他者と関わらない子供でした。それがそのまま育ったものですから他者と口を聞くことが大仕事で、20歳を過ぎるまでファストフードの店で注文することさえできなかったのです。

おじさんが学生ではなくなり、働く人になったのは19歳の秋口のこと。職場でのおじさんも推して知るべし、です。

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はじめての職場は、既にお話した通り、とある工場でした。はじめて配属された先は、最早や定年退職の日を待つばかりの人ばっかりが寄せ集まったのんびりした部署。はじめて「働く」ということをする、右も左も前も後ろもわからないおじさんでも、現場の人たちは気長に指導して何とか使える作業員に仕立ててくれました。

しかし、この職場には難がありました。お給金が、とてもお安い。

おじさん、一応大学に進学したんですが、訳あって一瞬で退学してしまいました。その「訳」のひとつには「経済的理由」てのもあって、だから働きはじめたのですが、1年勤めても昇給の幅がやたらと狭かった。初回の昇給幅が時給にして20円。

これはここで勤続してもいつまでも薄給のまま。それを思っていた頃に2冊の本と出会います

1冊は『別冊宝島 裸の自衛隊!』(当時・JICC出版局/現・宝島社)、もう1冊というか1作は『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ講談社)です。

 もうおわかりですね。うかつに影響されてしまったのです。

当時はまだバブル経済の栄華が残っていた頃。自衛隊が国外へ出ていくことなんてあり得ないと考えられていた時代です。完全週休2日制の、規律正しい職場。3食提供されて賞与年3回。目が眩みました。そして単純な艦艇への憧れ。

当時まだ20代前半でまだおじさんではなかったおじさんは「取り敢えず資料だけ取り寄せてみよう」と思い、街に貼り出された「自衛官募集」のポスターの横にくっついている資料請求はがきを持ち帰って必要事項を記入の上、投函しました。

そしたら、資料と一緒に広報官(自衛官募集事務所の職員=自衛官)が家に来ました。

家族とともに広報官氏の話を聞くうちに、あれよあれよという間に一般採用試験(現在の自衛官候補生試験)を受験することになりました。ここからおじさんの仕事遍歴がはじまります。

転職最初の一歩は特別職国家公務員

おじさんが受けた自衛官採用試験は「一般」、合格すれば2士(2等陸・海・空士)に任官し、初頭教育課程(約3箇月)を経て各部隊に配属されるというやつです。現在で言う「自衛官候補生」ですが、現在の制度では試験に合格して初等課程を終えてから2士に任官するようです。

おじさんが資料請求はがきを出したのは5月だったので、ほかの一般曹候補学生だとか技術曹だとかは受験時期を既に過ぎていたし、防衛大学校は当時はまだ女性は入学できませんでした。こうして振り替えるとめちゃくちゃ昔の話ですね。一時代過ぎてしまった感。

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当時のおじさんが受けた自衛官採用試験の内容は、筆記試験・口述試験・適性検査・身体検査です。自衛官は女性の場合、身長150cm以上必要です(1990年頃の規定)。

ほか、肥っていてもいいけど肥り過ぎは駄目、虫歯がたくさんあると駄目、重い持病があると駄目など、身体検査で予めクリアする必要がある項目は割りと多めです。適性試験クレペリン検査とか谷田部ギルフォード検査とか、よくあるアレです。運転免許取るときにやるやつね。

試験は最寄りの陸上自衛隊駐屯地(2つ隣りの県)で行われました。駐屯地内に自衛隊病院があるので身体検査はそこで行います。実に当たり前のことですが、受験するおじさんとほか2人以外のそこにいる人は医師や看護師も含めて全員自衛官なんですな。当時はそれが何だか不思議に感じました。

おじさんが受験した頃は、自衛官のなり手がいなくて募集事務所の人がやたら苦労していた頃です。街なかでぼんやり信号待ちなんかしていると誰彼構わず「自衛隊に入りませんか」とリクルートされてしまうという「笑い話」があったくらいです。

自衛隊リクルートの苦労話の例としては、前述の『裸の自衛隊!』という実録本によると、あんまりにもなり手がいないので、自分の名前を漢字で書けない人まで「魔法を使って」入隊させていた、という話もあります。

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それくらい志願者が少なくて、それだけに入隊しやすかった時期の、終わり頃でした。間もなくバブル期が終わって、入隊条件がどんどん厳しくなっていくのです。

さて、おじさんが受験したのはとても入隊しやすい時期だったし、どうしても自衛官になりたいという訳でもなかったので、結構気軽に受験したのでした。筆記試験は国・英・数の3科目で各科目4択で回答、レベルは中学卒業程度の学力とされていました。口述試験というのは面接のことです。

おじさんはこれにするりと合格して、あれよあれよで入隊することになりました。

はじめて家を出る

当時はまだ女性自衛官ではなく「婦人自衛官」と呼ばれていて、その数も陸上自衛隊以外ではまださほど多くはありませんでした。自衛隊は「輝号計画」というイメージアップ作戦のもと、自衛官増員及び婦人自衛官を積極的に採用して配属範囲を拡げるということをしていました。

自衛隊採用試験は陸海空共通で、口述試験時に配属希望先を(一応)訊いてもらえます。希望と試験で判断された適正を総合して配属先が決まります。おじさんの希望はもちろん海上自衛隊口述試験で「海上に配属されないなら入隊しません」と言いきったのがよかったらしく、希望通りの入隊が決定しました。

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婦人自衛官の入隊時期は春と秋の2回あって、おじさんは秋組に入りました。これは受験及び合格の時期によります。春組は学校卒業すぐの人たち、秋組は中途採用の人たち、という風に必然的にその割合が多くなります。

春組は国内5ヶ所くらいで教育が行われますが、秋組は海上自衛隊の場合は横須賀教育隊一択です。おじさんは近畿の端っこの住人だったのですが、荷物をまとめて夏の終わり頃に横須賀へと旅立ちました。

このときまでおじさんはずっと実家暮らし。実家以外で寝泊まりなんて入院したときと修学旅行くらいしかありません。自分で旅行に行くことすらなかったのです。どちらかというと不安の方が多い状態で出発しました。何と募集事務所の広報官氏が家まで迎えに来て駅まで送ってくれるのです(逃げられない)。

ちょうど映画『魔女の宅急便』が公開された頃で、乗せてもらった広報官氏の車のカーラジオから、件の映画のエンディングテーマ曲『やさしさに包まれたなら』が流れてきたのが印象的で、いまも憶えています。

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着隊日から入隊式までは、地方から集まった入隊候補者らは隊内でとても大切に扱ってもらえます。「班長」という、教育隊での班(9~11人の単位)に1人つく担任教師的上官も親切でやさしいです。

しかし、入隊宣誓書に署名・捺印した瞬間から、日本各地から集まった採用試験合格者たちは「自衛官」となります。その瞬間から「お客さま」ではなくなり、班長たちも鬼のよーな存在となります。

ここから約半年間の「練習員課程」での基礎教育を経て、新人自衛官は各部隊へと配属されていきます。おじさんも半年間を横須賀教育隊で過ごすはずだったのです……が。

「が」と言えば逆接の接続詞。逆接するお話をこれからせねばならないのですが、続きは次回に。

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