おじさんがおじさんになるまでの話

おじさんは昔おじさんではなかった。それどころか、男の子でさえなかった。男の子に生まれなかったおじさんが、いかにしておじさんになったかを少しずつお話ししていきます。

家庭環境と父の思い出〔個人史24〕

ごきげんよう、風呂場で頭髪を剃るときに剃刀の換え時を見誤って湯舟を赤く染めたことがあるおじさんです。剃れない剃刀ちょーキケン。

前回は閑話的に歯科医でのできごとと、それから父の葬儀のお話をしました。おじさんの公的男性デビューの場でした。それは抑圧されていたおじさん自身の解放の場でもあったのです。

ということで今回からは、おじさんはどういった抑圧から解放されたのかというお話をしてみましょう。ちょっと厭な感じのお話ですが、ごめんなさいね。

おじさんの育成環境

おじさんの家庭はちょっとフクザツでした。父はいましたが、家にはいませんでした。他県に住んでいて、月に1回帰ってきて数日間滞在して、また他県に帰るのです。

おじさんが小学校に上がるまでは、母も家にはいませんでした。「地方巡業」する仕事をしていたのです。幼いおじさんの面倒を見てくれていたのは、主に祖母でした。母方の祖母です。おじさんの実家は母の生家でもあったのです。

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祖母は1900年生まれ。1900年と言えば明治33年。「日本のシンドラー」こと杉原千畝氏と同い年です。海外では『星の王子さま』の作者サン=テグジュペリが同年に生まれています。おじさんとちょうど70歳違いです。

おじさんの記憶ももう薄いのですが、祖母は割りとおじさんのやりたいことをさせてくれていました。4歳が5歳の頃にはおじさんは台所で一人で火を使って即席ラーメンを煮たりしていました。やり方を祖母が教えてくれたのだと思います。

いま思うとよくやらせてくれたなあ。おじさんはそれくらいの年令の人に一人で台所を使わせるのは怖いです。同じように、大工道具を使って工作っぽいこともするようになっていました。のこぎりなんかも自由に使わせてもらっていました。いま思うと(以下省略)。

「本を与えておけばグズらない子供だった」と母が後年、述懐しております。そのためか、「小学○年生」を就学前から読んでいました。むしろ就学後は読まなくなりました。ほか「たのしい幼稚園」「テレビランド」「テレビマガジン」、いまも健在の「てれびくん」など。

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こういった雑誌は総ルビです。漢字にはすべて読み仮名がついています。そのため早くから漢字が読めるようになったおじさんは、やはり就学前から少年漫画誌も読むようになりました。理髪店や喫茶店には必ず漫画雑誌がおいてありましたから、そういうところに行ったときは必ず読みました。

おじさんの最古の記憶が残っている1973年頃というのは「週刊少年チャンピオン」の全盛期で、手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』が……ととと、これ以上はヲタク語りが止まらなくなるのでやめておきまして。この頃既に、本を読んだり工作したり、一人で時間を過ごす習慣ができていたのですな。

抑圧するもの

さて同様に「この頃既に」、おじさんは父が嫌いでした。父はおじさんを殴るからです。ものごころついたときには既に、おじさんにとって父は「殴る人」だったのです。

「悪いことするから殴られるんじゃないの?」とお思いの御仁も多いことと思いますが、おじさんと父の間に限っては「複数の視点からどのように考えてみても」、おじさんに落ち度があると納得できることがなかったのです。それは、どの例を取ってみても。

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たとえば。父が焼き鳥を買ってきて、おじさんに「食べろ」と言いました。おじさんはそのとき、腹も減っていなかったので「今いらない」と言いました。殴られました。1発2発じゃないです。父はいつも、殴りはじめると短くても1分間は繰り返し繰り返し何発も殴り続けます。

たとえば。1970年代当時はまだ電話がない家というのも多く、おじさん宅の裏手に住んでいたMさんご一家もそういったお宅でした。Mさんご一家への連絡はおじさん宅にしてもらい、電話を受けた者がMさんを呼びに行くということをしていました。こういった連絡の形態を「呼び出し電話」と言います。

さて、我が家に電話がかかってきました。電話を取った父が「Mさんを呼んでこい」とおじさんに言いましたが、Mさんと言ってもMさんご一家は4人家族です。どのMさんを呼べばいいのか、と思い「Mさんの誰?」と父に訊ねました。殴られました。

さらに、たとえば。風呂を沸かしているときに「火を止めたか」と父に訊ねられたので、「風呂の火?」と確認すると、殴られました。

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一事が万事こんな風で、おじさんから見ると父は「突然怒り出して殴る人」でした。おじさんは自分の何が悪いのかわかりません。父は理由も言わずに殴るので。あるとき、「お父さんがなぜ怒っているのか(いつも)わからない」と(怒っていないときの)父に言ってみたらば、「わからないなんておかしい」と言われて、いまもわからないままです。

こんな次第なので、おじさんはものを言わない子供になりました。おじさんが口にした何が父の気に障って怒り出すかわかりませんから。さらには、側にいたらいつ怒り出すかわからないので、食事どき以外は別の部屋にいるようになりました。部屋数がある家に住んでいてよかった。

おじさんが幼い頃は月に1回、帰ってくるだけだった父が、おじさんの中学校入学を機に常時在宅となりました。さらに息詰まる日常。

父が別宅で生活をしてしたのは、仕事のためでも何でもありません。おじさんが小学生になる頃には父は糖尿病を患っていて、それを理由に働かない人でしたから。1日中、家にいるか、そうでなければ公営ギャンブル、競輪・競馬・競艇に出掛けるかの何れかです。そして50歳を過ぎてからパチンコを覚えるのです。おじさんを育てて養ってくれたのは母であって父ではなかった、と思っています。

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学生時代のおじさんは好きで勉強していたのですが、きちんと宿題をやったり本をたくさん読んだりするおじさんに父が「お前な、勉強なんかしても将来儲からないぞ」などと言ってきたりしました。確か、おじさんが小学6年生のときです。イラッとしたおじさんは「『財を積むこと千万も薄芸身に随うに如かず』と言うし」と言い返してしまいました。そのときは殴られませんでした。

今回の当ブログはぱぱっと思い出せたことだけを書いたものです。お読みになって、イヤーな気分になってしまった人もおられるかと思います。書いているおじさん自身、ちょっとイヤーな気持ちになってます。

よーく思い出したらまだまだこの手の話は積もった30年分は出てくるのですが、やめておきましょうね。次回はこの続きのお話ですが、イヤーな経験のお話はここまでにしますので、安心して次回もよろしくです。

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