おじさんがおじさんになるまでの話

おじさんは昔おじさんではなかった。それどころか、男の子でさえなかった。男の子に生まれなかったおじさんが、いかにしておじさんになったかを少しずつお話ししていきます。

埼玉医大答申とトランジション〔個人史9〕

ごきげんよう、好きでアロハシャツを着ているとコワい人だと思われ、好きで作務衣を着ていると僧侶だと思われ、しかしてその実態は神秘のベールにに包まれている(と思っている)おじさんです。

前回、おじさんはミシンが下手、というお話をしましたが、その後、特に練習した訳でもないのになぜかちょっと上手になっていまして、写真のような被りものを縫ったり、最近ではマスクを縫ったりできています。

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前回までは、転職に転職を重ねるおじさんは社会の中で上手に働けない人なのだった、というお話をしてきました。すべて世を忍ぶ仮の女性時代のお話です。今回からはトランジション、性別移行期のおじさんのお話をしていきたいと思います。

思い出の1996年

1996年。読者のみなさんは既に出生済みでしたか。「生まれる前だわー」という人も少なくはないのでしょう。おじさんはまだおじさんじゃなかったのに「もう若くはない」などと勘違いしていた頃です。

この年に何があったか。このブログでも何度かお話ししたかと思いますが、日本ではじめて埼玉医科大学病院倫理委員会が「性同一性障害の患者に対する医学的治療は正当な医療行為である」(概略)という答申を出し、それが新聞報道された年だったのです。

一般紙でもスポーツ紙でも「日本で『性転換手術』が可能になった」と報じられました。しかしこのときは、多くの人々の関心は「手術でつくった人工ペニスでセックスは可能なのか」といったことに集中していて、なぜ外科手術が必要なのかなどということにまで深く突っ込んだ記事はありませんでした(と、おじさんは記憶しています)。

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しかし、埼玉医大が答申の発表記者会見を開き、このことが広く報道されたことで「性同一性障害」という言葉、そして概念が広い範囲で知られるようになったことは確かです。この報道の後、当事者を取材したドキュメンタリ番組がテレビでいくつか放送されて、おじさんもそれを見ました。

その頃のおじさんは、世を忍ぶ仮の女性でいることがそろそろ窮屈に感じていました。そして文章を書くこともずいぶん早く志していて、「男性として生きることはできないけれど、せめて紙の上でだけは男性として生きよう」ということを考えていて、「逆・紀貫之」していました。

紀貫之、知ってますよね? 男性なんだけど「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり」などと女性の振りをして仮名文学を書いて広めた平安の人です。紀貫之兄さんは『土佐日記』を書くときに女性として書いた訳ですが、成人前辺りのおじさんはそんな感じで、「この作者は男性です」の体で文章を書くことにしていました。

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そう、おじさんは「男性として生きることはできないけれど」と何の根拠もなく思っていたのです。そしてそれはおじさんの思い込みでしかなかったことが、この頃見たドキュメンタリ番組でわかったのです。番組の中には、女性として生まれたけれど男性として働いて生活している人が、実際にいました。

これを見ておじさんは「できるんだ」と気づき、自分でもしようと思い立ったのです。

父からの謎情報とトランジション

ちょっとさかのぼったお話をします。1996年から20年ほどさかのぼった、ある日の夕食どき。家には不在がちの父が食卓にいて、テレビにはカルーセル麻紀さんが映っていました。ご存じですよね、カルーセル麻紀さん。

1970年代初頭、カルーセル麻紀さんはモロッコという国に渡り、当時で言う性転換手術を受けて1年ほど休養して芸能活動に復帰したのです。映っていたのはその復帰報道だったのかな?

それを見ながら我が家は食事をしていたのですが、その時に父が謎情報を披露したのです。
「男から女になる手術はできるが、女から男になる手術は現在の医学では不可能」。

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どこに情報ソースがあったのか、そもそもソースもない又聞き話だったのか、それとも当時の事実だったのか、いまとなってはそれもわからないのですが、これを聞いた当時の幼いおじさんは、これまたなぜかそのまま信じてしまったのです。なぜ素直に信じた。

その情報がアップデートされないまま、おじさんは1996年を迎えてしまいます。そしてその情報が事実と異なることをようやく知ったのでした。1996年現在、国内で手術も可能になったし、生まれたときに判定されたのとは異なる性として生きることは可能なのです。

新聞やテレビでの埼玉医大病院関連の報道とドキュメンタリ番組と、そこからさらに情報を求めたおじさんは、1冊の本を買いました。『女から男になったワタシ』(虎井まさ衛青弓社)です。米国で性別適合手術を受けて帰国した、日本ではじめてのオープンリートランスマン作家・虎井氏のご著書です。

虎井氏は埼玉医大病院の答申があった少し以前から、ご自身の体験やセクシュアルマイノリティに関連した記事を週刊誌に書いたり、インタビューを受けたりなさっていて、答申の報道に際しても新聞各紙で顔出し・名出しでコメントなさっていたので、ご著書を探し当てるのは容易でした。

虎井氏ご自身の個人史や性別適合手術の経験などが書かれたその本の末尾、奥付に添えられていたのは、これも日本初のFTM関連のミニコミ誌『FTM日本』の案内。早速手紙を送りました。

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▲当時おじさんが使っていたPHS(PALDIO 312S)

当時はようやくPHS(携帯電話の簡易版?)や携帯電話が普及しはじめた頃で、どちらかと言うとPHSの方がポピュラーで、おじさんもPHSユーザでした。その頃、PHSから送受信できたのは、カタカナ20文字限りのメッセージのみ。電子メールはまだ一般的ではなかったのです。

まだまだ通信の中心は郵便だった(ラップっぽい)時代。「メール」と言えばエアメールのことだった時代です。手紙を出して、早ければ1週間から10日くらいでお返事が届きます。そうして秋のとある日に『FTM日本』最新号を入手。ここからおじさんのトランジション(性別移行)がはじまったのです。

次回からはおじさんがトランジションに際して実際にはどんなことをしたのかをお話ししていきましょう。

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