おじさんがおじさんになるまでの話

おじさんは昔おじさんではなかった。それどころか、男の子でさえなかった。男の子に生まれなかったおじさんが、いかにしておじさんになったかを少しずつお話ししていきます。

おじさんの哲学〔3〕

ごきげんよう、毎日ごはんがおいしすぎて困っているおじさんです。 

1回だけちょろっと書くつもりだったことが、随分長くなって3回めです。これはおじさん自身の備忘録でもあるのですが、普段どんなことを考えているかというお話をさせていただいております。

考えていることを考えているままに書いたら長文になってしまって、これはいけないと見直してみると削るところよりも足りないところが目に付いてしまって、見直せば見直すほど長文になる、というよろしくないくせがおじさんにはありまして、だからあまり見直さないでここには書いております。

言わせてあげなさい

思わぬことや自分が意図しないことなど、他者から言われることは誰にもあるでしょう。相手が望まないことをわざわざ言いたい人というのも世の中にはいるようです。おじさんもそういった人に出会った経験があります。

たとえば、おじさんは法律上も事実上もすっかりおじさんなんですが、「おじさんを標榜しているが、その実はがさつな女性に過ぎない」みたいなことを言う人もいたりします。

そういう人に出会ったとき聞き及んだときに、いちいち咬みつき返している人というのもいますね。そういうのは、おじさんは「しんどそうだな」と思います。

厭なことを言う人というのは、言いたくて言っているのです。なぜ言いたいかというと、言わないと不安なのです。他者についての何かをとやかく言っていないと、自身の何かをたしかに保っていられないのです。

どうしてこれを確定的に言えるか。自身についてある程度の確信・自信を持っている人は、他者について何を言う必要もなく、だから言いたくもならないものだからです。

言わないと不安である、自分を保てないということは、どれほど心細いことでしょう。大変気の毒な状態です。私を悪く言うことであなたの不安が少しでもやわらぐのなら、どうぞお言いなさい。おじさんはそんな風に思うのです。

心無い何者かがおじさんのことを「女性に過ぎない」などと言ったところで、おじさんが実際に女性に変化するかと言えば、そんなことはありません。たとえば誰かが「カラスという鳥は白い」と言えば、その瞬間にカラスが白くなるでしょうか。

世界70億の人が口を揃えて「カラスは白い」と言ったとしても、おそらくカラスは白くなりません。同様に、一人や二人、おじさんのことを「女性に過ぎない」とか「女のくせに」という人がいたところで、おじさんがおじさんであることに変わりはないので、言いたいことを言わせて差し上げよう。

という訳で、おじさんは自分に余裕があるときは誰かが自分に厭なことをしてきてもさせて差し上げるようにしています。言の葉に如何に力があろうと、事実を捻じ曲げることはできないのです。

ということを知っているので、厭なことを言う人がいるとしても、おじさんは無理にそれを否定したり訂正したりさせたりはしようとは思わないのです。厭な気持ちにはなるけれど、そういうときは寝ます。寝るのがよい方法です。

おいしいものを食べて寝る

気持ちがしんどいとき、厭な気持ちになったとき、不安があるとき。心が落ち着きませんね。そういうときは何をしてもいい結果にはなりにくいです。ものを考えても碌な考えには至りません。特に空腹時は碌でもないことしか思いつかないものです。

こういうときは何も考えず、おいしいものを食べて寝るのが最適解です。おいしいものを食べてちょっとしあわせになって、食べると眠気がやってくるのでそのまま眠ります。すっきりと目が覚めるまで眠ります。

そうすると、不安はやわらいでいるし、眠っている間というのは脳はフル回転して起きている間にできごとを処理しているので、何らかの名案が思いつくかもしれません。少なくとも不安なまままんじりともしないよりはいい状態になります。

おまけ初回に「厭なことはしない」というお話をしたかと思うのですが、おじさんはここでもこの原則を活かす訳です。また、どうにもならない地獄の底みたいな状況も、眠って起きたら何かが変わっています。永遠に同じ状況ということはありません。必ずしも好転しているとも限らないのですけども。

一度寝て、起きてもつらい状況だったらもう一度寝ればいいです。逃げられる状況と場所があるなら逃げていいのです。もちろん逃げなくてもいいです。選択は自分のものです。でも、無理に苦しいことをしなければならないという理由はどこにもありません。

おいしいものを食べて睡眠を充分に取って、穏やかな気持ちでいれば、事態は好転するし援助も舞い込みやすいというものです。「苦しいの大好き!」という人でもなければ楽していいのではないでしょうか。苦行は何の助けにもならない、というのは紀元前に既にお釈迦さんが御身を以て確認しています。

厭なことを避けること、楽をすることは何ら悪いことではありません。できるだけしんどくないようにしましょう。しんどいときはしんどくなくなるようにしましょう。その手っ取り早くて確実な手段は「おいしいものを食べて寝る」です。ということを、おじさんはこれまでの経験により体得しています。

よって、これからもそうするでしょうし、ほかの人にもおすすめします(強いるものではありません)。みんな、苦しくないように生きましょうね。

てなところで、一旦おしまいです。おまけは不定期に増えていくと思います。ではでは。

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おじさんの哲学〔2〕

ごきげんよう、人生後半にもかかわらず二合飯ぺろりのおじさんです。 

一ト通り終わった「おじさんがおじさんになるまでの話」に続いての、おまけの話2回めです。「哲学」と言うと大仰なのですが、普段どんなことを考えながら生活しているか、というお話をしていますよ。

ゆるゆると仏教に沿って、ゆるく生きる

先にもお話しましたように、おじさんの生活のベースには宗教をはじめとする哲学が多く含まれています。宗教好きが高じて仏教系の大学で学んだこともあってか、仏教が占める割合も結構高めです。おじさんが学んだ大学の宗教学の教授はこのように仰っていました。

「お釈迦さまのことを知るには手塚治虫の『ブッダ』を読みなさい」

かの作品は創作の部分も多いのですが、仏陀の生涯と思想について丁寧に描かれていて、宗教・仏教をこれから学ぶ人に最適なのだそうです。

その上で『聖☆おにいさん』を読むと楽しさが倍増です。と言うか、この作品は釈迦とキリストの生涯や教典に書かれている内容のパロディなので、それを知らないとおもしろくないんですよね。

さて、『ブッダ』を読んでも分かるのですが、釈迦は苦行をよしとしませんでした。釈迦が生きた時代の宗教者らによると人は苦行を積むことで徳を積み悟りを開くとされていて、出家してからの釈迦もしばらくは苦行をしていたのですね。その場所の名前が「苦行林」。そこに6年もこもって苦行したのです。

そこで釈迦が何を得たかと言うと、「苦行をしても何も得られない」という知見。
断食の上、日の当たる場所で1日中、片足立ちをするとか、門外漢にはどのような効果があるのか量りかねるものをはじめとした苦行を重ねた釈迦は、目は落ちくぼみ、肋骨が数えられるほど浮き立った姿で苦行林を出て、ある娘が捧げた乳粥を食べます。

すると元気が出たのです。乳粥を捧げた娘の名前は「スジャータ」。

「やっぱ食べなきゃダメだよね!」てことです。て訳で、みなさんもダイエットだ何だと言って食べないというのはやめておきましょうね。しんどいときこそ、ごはんを食べてください。肥って困るなら、食べた以上のカロリーを運動で消費すればいいのです。

このような次第で、釈迦は苦行をやめました。お釈迦さまですら何も得られなかった苦行を私のような凡夫がしたところで無駄無駄無駄ァ!であります。という訳で、おじさんは苦しいことや厭なことはできるだけしないようにしています。

どうしても苦しいこと厭なことをしなければならないことになったら、苦しいこと厭なことを楽しいことに変換してから取りかかることにしています。やりようはあるものです。

そんな風に「できるだけ楽に楽しく」を旨として生活していますが、この世は苦ばかりである、というのもまた真なりであります。これも仏教の教えですが、人はこの世に生まれ落ちた瞬間から八つの苦しみを背負います。即ち「四苦八苦」です。

まずは、生まれて生きることそのものが苦しみ(生苦)です。そして、老いる苦しみ(老苦)、病いの苦しみ(病苦)、死ぬ苦しみ(死苦)。生老病死、これが四苦。

これに、愛するものと別れなければならない苦しみ(愛別離苦)、憎いものと出会わなければならない苦しみ(怨憎会苦)、求めて得られない苦しみ(求不得苦)、自分の心と身体でさえ思うままにはならないという苦しみ(五蘊盛苦)を合わせて八苦。

つまり、生まれて死ぬまで苦しみだらけです。苦しみしかない。「生きていればいいこともある」なんてことを言う人もいますが、それは勘違いです。いいことがあるのではなく、苦しみが消える瞬間がときどきあるだけです。それを「いいことがあった」と勘違いしているのです。

だから、生まれてこない方が人はしあわせなのです。仏教では「輪廻転生」が唱えられていますが、これは今生で修行が成し遂げられなかった人が「もう一回やり直し」で生まれてくるんです。つまり留年です。人生という修行を通して徳を積んで仏になれなかった人が、別の人格として生まれて徳を積むための修行を続けるのです。

だから、優れた人は生まれ変わらない。悲恋ものの物語で「生まれ変わって結ばれたい」なんて言ったりしてますが、それは「留年前提の恋愛」ということですな。輪廻転生はしないのが優等生。輪廻の輪を脱け出すことを仏教では「解脱」と言いますな。

稀れに若くして亡くなる人がいます。「いい人ほど早く亡くなる」てなことを言ったりしますね。逆に「憎まれっ子世に憚る」なんて言葉もあります。

つまりこれは、修行の度合いですよ。早く亡くなるということは、今生での修行が早く終わったということです。だから「おめでとう」案件です。憎まれっ子は徳が積まれなくて長々と修行をしていなければならないので長生きする訳です。

生きていたって苦しいばかりだし、早く死ぬのはいいことだし、生まれてこない方がしあわせなんですな。

という思想のもと、おじさんは生きています。それでなくても苦しい人生なんだから、できるだけ苦しいことをしないようにしているのです。他者に苦しみを与えないように気をつけているのです。

どうしても合わない人というのはいるから、そういう人とは憎み合ういがみ合うのではなく、ふれ合わないよう距離を取ればよろしいです。誰だって厭なこと・苦しいことは厭だから。お互いに厭なこと・苦しいことを与え合わないようにしましょう。

自分と自分以外の存在があれば、どうしたってその間には少なからぬ摩擦が起きます。摩擦すると痛いから、できるだけこすれ合わないようにしましょうね。と、おじさんは周囲に対して思っています。

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おじさんの哲学〔1〕

ごきげんよう、からあげでしか解決できないことがあることを知っているおじさんです。 

これまで1年とちょっとの間、おじさんの性別適合手術の体験談からはじまって、性同一性障害の治療のお話や、あるいはそれ以外の個人史をお話ししてきました。

このブログのタイトルは「おじさんがおじさんになるまでのブログ」。女児として生まれたおじさんが年齢的にも自認の上でもおじさんになるまでの話題をちょちょいとつまんでお話しして、一ト通りのお話を前回で終えました。

今後は不定期に「あれ書いとけばよかったかな」てことだとか、日常に思うこととか、書いていく予定です。「○○のこと書いてよ」というご要望をいただきましたら、できるだけ書けるようにしますので、ご希望がありましたら右カラムに記載のメールアドレスまでご連絡くださいな。

では、今回からはおまけ。おじさんの哲学、と言うと大仰なのですが、日常に考えていることなどお話ししておきます。セクシュアリティジェンダーなどには、深くは関わらないお話になるんじゃないかな。

これまで挿画を適度に入れるようにしておりましたが、フリー素材頼みの挿画でも結構な時間を取られておりましたので、今後は字のみです。字のみに耐えられる人は今後ともよろしく。耐えられない人には相済みません。

ありがたやのじいさま

おじさんは基本的には無神論者です。神も仏もないものだと思っています。しかし、神道や仏教やキリスト教などの宗教が説く内容を、生活や行動の旨とすることが多いです。それは(まともな)宗教の教えには理に適っているものが多いからです。

たとえば、しあわせになりなさい、また、自分のしあわせと同じように他者のしあわせを祈りなさい、なんてのは、現代日本でも就学前教育で教わりますよね。これを金剛禅では「自他共楽」と言います。それから、悪いことをしたら全部自分に返ってくるよ、なんてのは一部を除いた仏教が言う「因果応報」ですね。

こんな風に、行動や思想のベースに宗教があることというのは、日本に住んでいたら割りと多いのですが、おじさんの場合はさらにもう少し多いのです。

もともと宗教思想や哲学のお話が好きで、小学生の頃は自宅近所にやってくる移動図書館では毎回、宗教関係の本を借りて読んでいました。おかげでいくらか知識がついて、現在も幅を利かせている巨大新興宗教の人と議論して強引な勧誘に負けずに済んだということもありました。やはり小学生の頃の話です。

でね。
どの宗教、と言わずに、共通している教えというのは結構たくさんあって、その中には「日々、感謝しなさい」というのもあります。すべてのことに感謝を、と言う教派もありますね。おそらくここから民話の「ありがたやのじいさま」は生まれたのではないでしょうか。

「ありがたやのじいさま」というのは、何にでも「ありがたや、ありがたや」と手を合わせて感謝するおじいさんが主人公のお話です。蹴躓いても「ありがたや」、木の枝に頭をぶつけても「ありがたや」。ただやみくもに「ありがたや」を唱えるのではなく、蹴躓いたり頭をぶつけたりするのは「気をつけねばならぬと仏さまが教えてくれとるんじゃあ」という訳です。

おじさんはやがてじいさんになる訳ですが、「ありがたやのじいさま」になりたいと思っています。既に結構たくさん有難い状態ですが、それでも厭なことをしてくる人間にまでは感謝はできずにおります。その必要を見出だせずにいるのですな。「赦し」が足りない。寛容が足りない。

「ありがたやのじいさま」になるにはゆとりある心と広く受け容れる勇気と、赦すことができる強さが必要です。「赦す」ということは罰することができる者のみに与えられた特権である、というのはインドの聖者ガンジー氏の言葉であります。罰する強さを越える強さが必要なのですな。

つー訳で、おじさんは老い先短いのですが、身心のゆとりと強さを増すように、じわじわゆるゆるとそれなりにやっていこうとしています。「邁進する」とか「がんばる」とか、もうできないのね、年食っちゃって。年食うと気力が減ってしまってね。

あと、おじさんの生き方の芯になるのは「がんばらない」ことなので、気をつけてがんばらないようにしています。がんばると倒れるので。冗談だといいのですが、実際に何度か倒れているのでした。

ゆるくゆるく、「ありがたやのじいさま」を目指しています。

 

つらつら書いた「日頃考えていること」が、現時点であと2回分くらいあります。折りを見て整えて、公開しますのでときどき覗いてみてください。ではでは。

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おじさん、おじさんになる〔個人史33〕

ごきげんよう、ブラックコーヒーが飲めないままおじさんになったおじさんです。

性別適合手術のお話は全部済んだし、ものごころついてから手術に至るまでのお話もしましたね。前回はうっかり忘れていた戸籍訂正のお話をしました。さあ、おじさんがおじさんになるのに、もうひとつ必要な通過儀礼が残っております。今回はそのお話をいたしましょう。

30代は「おじさん」か否か

おじさんがまだ学生だった頃、「『中年』とは35歳以降」ということがまことしやかに流布されていました。その何年か前にはその世代を「『中年』ではなく『実年』と呼ぼう」てなことも言われはじめました。でもあんまり定着してないね「実年」。

30歳と29歳の間にある距離というか壁というか、そういうものの存在は物語の中でよく見かけられました。『銀河英雄伝説』(田中芳樹東京創元社)という大河小説の主人公の1人ヤン・ウェンリーは30歳になることをとても厭がっていて、29歳時に「もう30歳なんだから」的なことを言われると悉く「まだ29歳だ」と訂正していました。

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アニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)に登場する葛城ミサトは、やはり29歳。そろそろ「イイ年」だがまだ「20代」(若者)の領域にいるという微妙な年令の彼女は、ときには母のように、ときには姉のように、ときには友人のように、主人公の少年と接していました。それはひとつ年長の30歳では叶わなかったことかもしれません。

という揺れ動くお年頃の直ぐお隣りの30歳。29歳の人からやたら敬遠される30歳。まだ若いもん、と意地を張りがちな30歳。おじさんも30歳になったときは周囲からおっさん呼ばわりされるたびに「おっさんじゃない、お兄さん!」と訂正していました。やはり「自分はおじさんではない」という意識があったのですね。

おじさんと出会ったおじさん

その過剰な若者意識が氷解したのは2011年春のこと。おじさんは4月生まれなので、41歳になるかならないかの頃です。前厄ですね。当時まだ深夜まで起きていられる体力があったおじさんは、『Tiger&Bunny』(さとうけいいち監督)というTVアニメーションと出会います。

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Tiger&Bunny』、通称『タイバニ』の主人公の1人、鏑木・T・虎徹は35歳。ヒーローとして活躍しているが、正直のところ成績はいまひとつ。ほかのヒーローたちより年長で体力的にも遅れを取っているところを有り余る気力でカバーしている。そこで一計を案じた所属会社からはクビにされるまではいかないものの、新人の若いヒーロー、バーナビー・ブルックスJr.とペアを組まされることに。

バーナビーはルックスよし、能力よし、現場対応力よし、かつスタイリッシュ。虎徹を名ではなく「おじさん」と呼んで足手まとい扱い。奮起する虎徹と迷惑顔のバーナビーとの摩擦、コンビを組むことで変化する互いの心情を描くのが『タイバニ』です。

ヒーロー「ワイルドタイガー」こと虎徹は妻に先立たれて9歳の娘を男手で育てつつがんばる「おじさん」です。35歳なんて全然おじさんじゃないんですが、30歳未満の人はなぜか30代をとても年寄り扱いします。20代のバーナビーもやはりそう。

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そうしてことあるごとに「おじさん」と揶揄されながら奮闘する鏑木・T・虎徹は、いまひとつ恰好よくないです。スタイリッシュでスマートなバーナビーと一緒にいるために余計にずっこけて見えます。しかし、何ごとにも全力で当たり何ごとも最後まで諦めずみっともなく食らいつくその姿は、実にかっこいい。

若者が思う「恰好よさ」とは違うかもしれません。中年以降だからこそ理解し得るのかもしれません。その姿とバーナビーが向ける「おじさん」という言葉が結びついて、そのときのおじさん(筆者)の胸の内に、よいイメージの呼称として「おじさん」が入ってきたのです。

おじさんになったおじさん

という訳で、ひじょーにまことにまったく以て単純な話ですが、これ以来おじさんは「おじさん」と呼ばれることに抵抗がすっかりなくなり、それどころか進んで自称するようにまでなったのです。SNSやブログのハンドルネームも「おじさん」だしね。

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このような次第で、女児として生まれて育ち、性別移行を果たして経年しながらも「おじさん」を拒んでいたおじさんは、自他ともにおじさんと称するおじさんになったのでした。これにておじさんがおじさんになるまでの話、おしまいです。今回が突然の最終回なのでした。

次回はおまけとして、これまでお話ししてきたことや、それ以外のたくさんのことを経験して培われてきた、現在のおじさんの考えていること、考え方などをお話ししておこうかと思います。

ここで一旦おしまいですが、書き忘れたことを思い出したり、何となく書いておきたいなと思うことが出てきたりしたら、気紛れに更新していくかもしれません。気が向いたらときどき様子を窺いに来てください。

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それから、「え、あの話を期待してたのに書いてないじゃん!」て話がもしありましたら、右カラムにおじさん宛てのメールアドレスが書いてありますので、お気軽にその旨お便りくださいな。時間を見つけて書くようにします。

ではでは。ここまでお読みくださって有難うございました。また近々お会いしましょう。

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審判なくして訂正〔個人史32〕

ごきげんよう、年取ってあんまり食えなくなったなー、などと言いつつハンバーガー3コくらいだったらペロリのおじさんです。

「おじさんがおじさんになるまでの話」と銘打ってお話をしてきました。おじさんがまだおじさんでなく、世を忍ぶ仮の幼女だった頃の話から、すっかりおじさんになってからのお話も幾らかさせていただきました。

じわじわと「おじさんがおじさんになるまでの話」もお終いに近づいています。さて、おじさんがまだおじさんではなかった頃と、おじさんがおじさんになったのと、その境い目の頃にはどんなことがあったのか。お終いの前に、それをお話ししておきましょう。

性別が変わるとき

既にこのブログでお話ししてきましたように、おじさんが生まれたのは1970年、はじめて性ホルモン剤を摂取したのは1997年、性ホルモン剤の注射に辿りついたのが1998年、乳房切除したのも同年でした。

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はじめてタイ・バンコクの病院で性別適合手術を受けたのが2005年、すべての性別適合手術を終えたのが2013年です。この年にはおじさんの身体のかたちは概ね男性型に、社会的な性別や戸籍上の性別もこれよりもずいぶん以前に変わっていましたし、この頃には既にすっかりおじさんでした。

おじさんではなかった頃とおじさんのいま。その境界と思われる節目は、振り返るに2つありました。ひとつは戸籍上の性別訂正が叶ったとき、ひとつは「おじさん」を自称することに抵抗がなくなったときです。このそれぞれをお話ししましょう。

戸籍上の性別訂正

おじさんが身体の、また法律上の、その双方の性別を訂正した頃というのは、国内でヤミではなく合法的にそれらが可能になって間もない頃でした。

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性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」というとても長い名前の法律ができたのが2003年7月、その翌年2004年7月から施行されました。その翌年2005年におじさんは内性器摘出術、子宮・卵巣を切除して生殖能力を除去するという非常に非人道的な(と国際的には非難されている)手術を受けました。

その後、現行法においても外性器形成手術なしに(内性器摘出術が済めば)戸籍上の性別の訂正が可能であるという情報を得て、2006年に国内のジェンダークリニックでその旨を相談して、裁判所への戸籍訂正申し立てのための診断書を書いてもらえるようにお願いしました。しかし、この時点では断られたのです。

2006年時点では外性器形成なしに内性器摘出のみでの申し立てで実際に戸籍訂正が叶った事例が少なく、確実な方法ではなかったのでした。可能性があるなら、とおじさんは食い下がったのですが、内性器摘出のみで申し立てをして却下されてしまったら、これから戸籍訂正申し立てをするほかの当事者たちの人生設計にも影響するから、とのことでこのときは見送りとなりました。

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さらに翌年2007年の定期受診時に医師の方から「あれ、できるようになりました」ということで、もう一人の医師にあらためて受診をして、その医師と担当医とに1通ずつ診断書を書いてもらい、その年のうちに……と言っても早や12月半ばだったのですが、地元の家庭裁判所に行って、戸籍訂正申し立てをしました。

制度がはじまったばかりのこと、手続きにも手間取るのではないかと思っていましたが、裁判所の職員には充分な事前教育が行き届いていたようで、するすると書類の提出と事前面談は終わりました。

さて、あとは審判をしてもらうだけなのだけど、12月も半ばを過ぎるし、審判は年が明けてからだなと思いながら迎えた翌年2008年1月半ば。裁判所から封書が届きました。薄い封書。開封してみると、「戸籍訂正したヨ」というおしらせ。

審判は? 裁判官に会わなくていいの?

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拍子抜けした正月明け。書類提出と簡単な面談だけで戸籍上の性別が訂正されたのでした。所見を書いてもらった紙の束(診断書)を渡して、A4判の紙が1枚届いて、それでお終い。変わったことと言えば、戸籍謄本という多少お金を出さないと閲覧もできない書類の上の1文字2文字。

それが変わったからと言って、日々の生活ががらりと変わる訳ではありません。戸籍を見ないとわからないことですから、戸籍の謄本なり抄本なりを見せびらかして「法律上の性が変わりました!」と言ってまわるようなことをしない限り、周囲の人はそんなことは知ったことではないのですから。

ただ、お勤めに出て社会保険の手続きの際に気を遣わなくて済むとか、病院で受診するときに「ご本人はどちらですか」と訊かれなくなるとか、役所で戸籍などの書類をもらうときに職員氏が戸惑わなくて済むとか、そういったこまごまとしたメリットがあるだけです。もちろんこのメリットは重要なのですけれども。

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こうしておじさんは法律の上、というか公的書類の上で男性となったのでした。これで幾ら年を取っても、おばさんやおばあさんにはならない……ということでいいのかな?
こうして「おじさん」の素地ができました。

とは言え、おじさんと呼ばれて仕方がない年令であったにもかかわらず、当時のおじさんはまだ「おじさん」と呼ばれるのを厭がっていました。では次回はおじさんが「おじさん」であることを受け容れることになった経緯でもお話ししましょうかの。ほっほっほ。

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かたちに残る仕事〔個人史31〕

ごきげんよう、割りと元気な病人のおじさんです。

前回は、若かりし頃のおじさんが運の巡りに恵まれず、自殺企途をしたというお話をしました。人間というのはかんたんには死なないようにできているのですね。だからこそおじさんは自殺を果たした人はすごいと思うし、苦痛と努力の末に望みを果たせたのだから「おめでとう」を言わねばならないのだと思います。

だって、この世は苦しみだらけだから。人は生まれた途端に8つの苦しみを死の瞬間まで背負うのだから。この世に生まれるのは修行が足りないからで、修行をまっとうした人は輪廻の輪を抜け出し、二度と生まれてきません。これを「解脱」と言うのです。

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おじさんも二度と生まれて来ないようにしたいし、今生においても「あの日に帰りたい」とか「あのときからやり直したい」とか全然思わないです。

こう言うと「おじさんて人はこの世でいいことがなかったんだね」と思う人もおられるかと思いますが、かようにペシミスティックなおじさんにもうれしいことはいくつかあったんですよ。

そのひとつをお話ししておきましょう。これまでお話ししてきた中でも最も現在に近いお話です。

ヲタクでよかった

このブログでも何度か言っていたかと思うのですが、おじさんはヲタクです。2次元と言うか、「物語」を伴うものが好きなのです。だから、小説、漫画、映画、落語、舞台劇などなど、そういったものはみんな好きです。

そのうちでも好きで知識もいくらかあって手許にたくさん置いているもの、というと漫画です。ヲタクであるおかげで、漫画についての記事を書くという仕事をするようにもなりました。

その仕事をはじめた頃、ひとつの企画が通って、記事を書きました。2017年のことです。

おじさんはこの三浦靖冬さんという人の漫画がとても好きで、会う人会う人にプレゼンテーションしていたのですが、その気持ちが高じて仕事で三浦さんの作品を紹介する記事を書くという仕事をすることになりました。

上の引用記事がその記事なのですが、これを書いたことが時間差でおじさんのその後に影響を及ぼします。2020年のことに、ある方面から「『薄花少女』第5巻発売を記念して『三浦靖冬原画展』を開催するので、その図録に掲載する記事を書いてほしい」というご依頼をいただくに至ったのです。

薄花少女』という作品は三浦さんの作品の中でも人気作ですが、諸事情が重なった結果、最終巻である第5巻だけが電子版のみの発売となってしまいました。しかし、紙の本を望む声は多く、私家版としてまとめ、発売することになりました。

『原画展』はそれに伴うもので、図録とは展覧会等ではほぼ必ず会場で販売される、展示作品の図版や解説が収録された冊子のことです。今般のご依頼は、この図録に収録する作品及び「三浦靖冬」という作家についての解説文を書く、ということです。

このご依頼というのが、おじさんが書いた記事(上の引用記事)を三浦さんご自身がお読みくださったことがきっかけのひとつであったとのことで、ご本人に届くとは思ってもみず、ご依頼メールを受け取ったときは舞い上がって手足ばたばたしてしまいました。

ヲタク故に企画・執筆した・できた記事をきっかけに、記事テーマとして取り上げた大好きな作家さんの仕事をお受けできたというのは、ヲタク冥利に尽きるというものです。ヲタクでよかった。

今生一代の仕事

三浦さんの作品及びご本人についての文章を書くに当たり、ご本人に取材する必要があった訳ですが、メールによる取材ですが大量の質問に回答せねばならず、三浦さんにおかれてはご自身の原画展開催前のご多忙なところにずいぶんお手間だったことと思います。

それにもかかわらず、やり取りは一度二度では済まなかったというのに、何れのときも迅速丁寧にご回答くださったので、図録用解説文の執筆は速やかに遅滞なく進み、締切よりも早くに書き上がりました。

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書き上げた文章は図録に掲載され、『原画展』会場及び通信販売で多くの三浦ファンの手許に届きました。SNSには『原画展』に赴いて購入くださった人、通販で購入くださった人、それぞれに解説文へのご感想の投稿があり、ひとつひとつをうれしい拝読したものです。

さらに有難いことにおじさんが書いたものは記名記事としていただくことができ、記事とおくづけにはおじさんの筆名が記されております。実を言うと、これが現在のところ、ライターとしてのおじさんの、唯一の「紙に残る」仕事です。

憧れた作家本人に取材してその人のことを書くという光栄に浴し、さらには図録というとても大切に残してもらえる媒体に掲載するものを書かせてもらえたというのは、おじさんにとってこれ以上はない経験です。

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おじさんはもう半世紀を生きました。これよりしあわせなことはきっともう起こらない。それ故いつ死すとも構わないという気持ちでおります。最早や今生に悔いはございません。

ちなみに、の話ですが、『三浦靖冬原画展』が開かれたヴァニラ画廊は「攻めた」展示をたくさんなさるところで、他所ではなかなか見ることがないおもしろいテーマの展示も多いです。性・ジェンダーに踏み込む展示もあり、みなさんご存じ田亀源五郎さんや石原豪人林月光)さんのアートを観られる貴重な場でもありました。

また、『三浦靖冬原画展図録』、『薄花少女』の装丁を手掛けられたchutteさんは古屋兎丸作品を中心に数多くの魅力的な本を生み出すブックデザイナーです。『薄花少女』と『原画展図録』はカバーに同じ紙を使用していて、手ざわりがとても気持ちいいです。一度は手に取っていただきたい書籍です。

半ば宣伝のようになりましたが、終わった瞬間に忘れ去らざるを得ないような小さな仕事をたくさん重ねてきたおじさんの、忘れることがないだろう仕事のお話です。

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確実な死は難関である〔個人史30〕

ごきげんよう、駄洒落を臆面もなく言える人が好きなおじさんです。

前回はおじさんが自殺企図したことをお話ししました。かなりいい加減でテキトーな生き方をしているおじさんでも死を望むことがあったのです。と言うか、おじさんは死を厭なものだとか悪いものとは思っていないので、現在もいつでもカムカムウェルカムです。

1990年代初頭から半ば辺りに自殺企図を思い立ち、『完全自殺マニュアル』を熟読したおじさんが選んだのは「薬物による自死」でした。

薬物で確実に死ぬには

さて、おじさんが選んだ薬物を使用する自殺は、準備が比較的かんたんです。特別な「毒薬」は必要ありません。市販の薬で死ねます。薬と称せられるもの、いやそれに限らず、人が口にするものにはすべて致死量というものがあります。要は致死量以上を摂取すればいいのです。

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たとえば、とある顆粒状の風邪薬。1包2g辺り数mgの劇薬が含まれています。その成分が人体にとって最も毒という訳ですから、それを致死量分、摂取すればいい。さて、そのためには1包2gの薬を茶碗に山盛り一杯服む必要があります。

山盛り一杯の風邪薬を得ようとすれば、1箱買ったくらいでは追いつきません。およそ一家に必要な量の数倍もの数を買わなくてはならない訳ですが、1箇所で風邪薬を大量買いしたら明らかに「怪しい人」です。自殺もしくは殺人を企てていると通報される可能性があります。

という訳で、1箇所に集中しないように薬局・薬店を渡り歩かねばなりません。購入場所の店舗同士は、あまり近くない方がいいでしょう。同じ薬を買った人物を見かけた人同士がご近所同士だと、各店舗で同じ薬をいくつも買っていった人はやっぱり「怪しい人」ということになってしまいます。

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ですから、数日をかけて広い範囲の薬局・薬店を、できるだけ風体を記憶されないようにまわって薬を買い集めることになります。薬を入手するにもちょっとした苦労をしなければなりません。

そうしてやっと買い集めた薬を茶碗に開けて、そのまま水で服んではいけません。たいていの薬は一度に大量摂取すると吐き戻すようにできています。吐いてしまってはせっかくの薬が台無しです。

致死量の薬物を摂取するためには、丈夫な胃腸が必要です。自殺の計画を立てたなら、早寝早起きの規則正しい生活リズムをつくり、適切な運動を心がけ、暴飲暴食や絶食は避けて、胃腸を健康に保つバランスよい食事をしなければなりません。

そう、服薬で確実に死ぬためには健康でなければならないのです。

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用意した薬もそのまま服むのではなく、ヨーグルトか何かに溶かして少しずつ食べます。一度に身体に入れると吐き戻してしまいますから、少しずつゆっくりと身体に吸収させるのです。

ゆっくりゆっくり食べて、薬ヨーグルトを全部食べきったら、おそらく数時間後には致死するでしょう。茶碗一杯の薬を溶かすためのヨーグルトはおそらく3kgほど必要でしょう。健康な胃腸が必要というのは、こういうことです。

途中で吐いてしまったら、体調を整え直してやり直しです。

一度死んだ感

ひとつ前の節をお読みになって、バカバカしくなりませんでしたか。死ぬためにはこれだけ努力が必要で、お金も必要で、何より健康でなければ死ねないのです。そして多分、健康だったら死のうと思っていなかったでしょう。

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服薬だけではありません。たとえば首吊りは喉を絞めるのではなく、縄に全体重がかかったときに頸椎がずれてしまうように縄をかけなければなりません。喉が絞まるだけでは人はなかなか死にません。また、縄が切れたりほどけたりしないように、丈夫な縄を選定し、しっかりとしたロープワークで設置する必要があります。

それだけ気を付けてなお、失敗の可能性が非常に高いのが首吊りという死に方です。

断崖絶壁からの投身。断崖絶壁は平らではないので、身を投げても着水前に断崖に身体がぶつかって、大怪我をするだけで死なない可能性が高い。ビルなどの高所からの投身も、飛び降りた先に軒や日除けテントや通行人があるとそれらがクッションになって死の確率が下がります。

かように、「確実に死ぬ」ということはとても難しいのです。かんたんには死ねない。自殺の方法を一ト通り読んでしまうと、そういったことが分かったと同時に1回死んだ気分になりました。1回死んだからもう死ななくていいです。

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こんな訳で、おじさんの自殺企途は未遂に終わったのでした。「もしものとき」のために『完全自殺マニュアル』はいまも手許に置いていて、死ぬことはいまも全然厭ではないのですが、加齢とともにあらゆることが面倒に感じるようになってきていて、現在では自殺も手間がかかるし面倒だなー、と思っています。

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自殺企図〔個人史29〕

ごきげんよう、できるだけ旬のものを食べるように気をつけているおじさんです。

前回まで救急車に乗った経験をお話ししていました。ちょっとめずらしい体験シリーズです。救急車で助けられたお話をしましたので、次は死に直面したお話をしようと思います。

おじさんがまだおじさんではなかった頃

1990年代のことです。おじさんは20代でした。家庭の事情で大学を中退してから、まともに仕事に就けない時期が続きました。世を忍ぶ仮の女性だった頃です。

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社会から求められる「女性らしさ」を持ち合わせていなかったおじさんは、でも、それを適度に持った「フツーの女性」こそを雇いたいという「まともな仕事」に振り向いてもらえず、またそれ故かそうでないのか、ちょっとだけ足を突っ込んだ公務員にバブル経済後の就職氷河期に帰り咲こうと、いま思えば非常にツゴーのいいことを願っていたり、つまり、迷走していました。

この迷走振りについては、1ダース以上も職種を経験したよと以前にこのブログでもお話ししましたが、ただ能天気に各々の経験を楽しんでいた訳ではなかったのです。

迷走していたということは、どれもこれも巧くは行っていなかったということ。人生低迷期です。この時期までに蓄積された抑圧と、新たに生まれた「新しい家族」への遠慮と、先行きが不透明な境遇と、巧く行かない就職。就職については自分のジェンダーと社会から求められるジェンダーとのずれも関係しています。

「新しい家族」というのは、幾らか以前から他都市で生活していた姉が帰郷したのですが、結婚して子と夫を連れて実家で生活をはじめたのです。そうしますと、おじさんはそれでなくとも小姑。

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まだ実家暮らしだったおじさんは非常に肩身が狭い。しかし仕事が安定せず家を出られもせず。そんな頃です。もー頭ぐるぐるでまともにものも考えられない状態になっていました。言うまでもなく情緒は不安定で、そんな状態ではやることが巧く行くはずもありません。

マニュアル流行の折り

見事な悪循環。深い深い泥濘の沼に捕らわれたかのような、動けそうで動きが取れない状況。そんな現世から逃れたい。おじさんは思ったのです。

その頃流行っていたのは「マニュアル本」。○○マニュアルと題した読みものがたくさん出版されていて、書店に行って本を眺めたり読んだりが好きだったおじさんもそういった類いはよく目にしていました。

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その流行の発端こそは、おじさんが手に取った本『完全自殺マニュアル』です。平成初頭の当時でも結構な非難を浴びていましたが、読んでおもしろく「参考になる」本でした。

完全自殺マニュアル』とは、タイトル通り自殺の方法が詳細に記された本です。それも1種類2種類ではなく、物理的なものから化学的なものまで多岐に渡り、実行する人の能力・状況に合わせて「より確実な方法」を選べるようになっています。

この本はベストセラーとなり、さまざまな「マニュアル本」が後に続いてそれこそ雨後の筍のようにたくさん出版され、マニュアル本ブームとなったのでした。当時のおじさんがなぜその本を手に取ったか。理由はいくつかあります。

完全自殺マニュアル

完全自殺マニュアル

  • 作者:鶴見 済
  • 発売日: 1993/07/01
  • メディア: 単行本
 

おじさんがもともと中二病的と言いますか、タナトスに惹かれる傾向にあったということ、いくらか以前から調べていた「人間を確実に死なせる方法」について書かれたものであること、そして、おじさん自身が死を望んでいたことです。

自殺企途

やることなすことが巧く行かず、頭ぐるぐるで気が休まる場所がない。そんな状況が半年も続けば、うつ病を発症するには理由は充分です。幼い頃には既にその傾向があった上に抑圧と低迷が続けば、おじさんでなくても正気ではなくなるでしょう。

ただ、正気をなくした状態というのは、一見してわかりづらいものです。世間の人は正気ではない人=狂人=暴れて刃物等を振りまわす人、のような昔々の映像作品に登場した「異常者」のイメージを持っていますが、それは甚だ極端な例です。

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狂気のはじまりは正気にとても似ているので、周囲の人たちも「いつもと違う様子」というくらいのことしか気がつかず、それも「そう言えばあのとき……」といった気づき方をするのです。

真の狂気というものは当人にとって狂気ではないという確信があるものですが、このときのおじさんには病識がありました。だから自主的に精神科で受診して処方された薬を服んでいましたが改善は見られず、さらにぐるぐるスパイラルに陥っていきます。

そういった経緯と『完全自殺マニュアル』との出会いとが相俟って、死への意識が高まったのです。

確実な死のために必要なもの

当時もいまもそうなのですが、おじさんは死の経験がありません。つまりノウハウもない訳で、知識も技術も持たない分野にそれを求めるなら、先達か書物に頼らねばなりません。

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死に成功した先達はみなこの世にはおらず弟子入りも叶いませんので、頼れるのは書物だけです。といった訳で『完全自殺マニュアル』を熟読するに至ります。

高所からの投身。鉄道への投身。断崖絶壁からの海への投身。家庭用電源を利用した感電。首吊り。刃物等凶器の使用。さまざまな死を得る方法と、そのための準備と手順が『完全自殺マニュアル』には書かれていました。その中で私が最も自分に向いていると思ったのは、薬物を使用する方法でした。

既にお分かりのことと思いますが、自殺というのは失敗できません。必ず身体のどこかを損傷してしまう行為ですから、半端に死に損ねると自殺以前よりもつらく苦しい状況に陥りますし、身体が不自由になった分、再び自殺を企てるのも難しくなります。

自殺は、確実な死が用意できないのであれば、してはいけないのです。

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次回はおじさんが確実な死を目指して選んだ手段についてお話ししましょう。現在おじさんが生きているのは自死に失敗したからでしょうか、自死を選ばなかったからなのでしょうか。

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救急車で運ばれた話(2)〔個人史28〕

ごきげんよう、昼間はいつの間にか入眠しているのに夜はあまり寝つきがよくないおじさんです。

はじめて救急車で運ばれたときのことをお話ししています。病院に診てもらいに行ったら病院で救急車を呼ばれてしまい、救急病院に運び込まれたのでした。ベッドの上で採尿することになって、陰茎形成術を受けてからはじめて「ちんちんって便利だ」と思ったのでした。

さて、今回は諸々の検査が済んでのお話です。

来た。

いくつか検査をした後、「ご家族に来ていただきたいので連絡先を」と看護師から請求がありました。わし、そんなに重症なの?と思いながら連絡先を告げて、おじさん自身はそのまま入院となりました。

連れて行かれた部屋が、隔離室です。広めの個室で、ドアが密閉式の自動ドアです。この部屋から一切出てはいけません、と告げられました。食事は看護師が運んでくれるそうです。

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検査の結果は肺炎だったのですが、レントゲン像を見るとモヤモヤと大きな影があって、近頃流行しつつあるという結核の疑いがある、とのことで隔離されることになったのでした。結核は空気感染するからね。

この隔離室がね、ゴージャスなの。テレビ付冷蔵庫付シャワー室付。テレビ・冷蔵庫はテレビカードとかいらないやつ。食事は三度三度、看護師がベッドまで運んでくれて、食器も下げに来てくれます。あらーお大尽だ。

この部屋までストレッチャーで運ばれたので、横になっている間にあれよあれよと手続きが済んで、隔離室のベッドに移ったら即座に点滴がはじまって、おじさん自身はほぼ寝ているだけでした。

入院に必要な衣類や用品などは、以前にこのブログにも書いたかと思いますが、おじさんは「これだけ持ち出せば家出・避難・入院等OK」という鞄を常に用意しているので、親族にそれだけを持ってきてもらえればこと足りました。

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点滴と内服薬が直ちに処方されて、そのおかげか入院当夜から咳も鎮まり、安眠が得られました。咳が出ないっていうのはとても楽な状態なんだなあ。食事も概ね摂れましたし、順調に回復に向かいました。

ただ、最初の2日間ほどは水も喉を通りづらくて、親族にフレーバーウォーターを買ってきてもらいました。少し甘みがある方が飲みやすいんですね。

入院3日目を過ぎると症状もほぼ落ち着き、「明日レントゲン撮影します」と告げられました。レントゲンを撮るならレントゲン室に行かなければなりませんが、おじさんは隔離室を出てはいけませんと言い渡されています。どうするのだろうと思っていたら。

来た。

レントゲンが隔離室に来た。レントゲンの機械とレントゲン技師が隔離室にやってきて、隔離室のベッドの上でレントゲン撮影をしました。おじさんは病院大好きでいろいろな検査を体験してきましたが、こんなのははじめてです。すげー! はじめての体験というのはいつでもわくわくするものです。

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レントゲン検査の結果、入院当初に見られた肺の影はなくなっていたので、検査の翌日は一般病棟に移動、さらにその翌日には退院と相成りました。隔離されて隔離されたまま検査を受けるというちょっとめずらしい体験は、人に話すと割りとよろこばれます。

自ら呼ぶ

さて、そうした救急車搬送→入院の経験をした訳ですが、この経験は他者に救急車を呼ばれるというものでした。よもや病院で救急車を呼ばれるとは思ってもみず、これはこれでめずらしい体験です。

二度目の救急車体験はそれから約10年後。おじさんは背中に謎の痛みを覚えたのです。肋骨の背中の方と言うか、肩甲骨の下辺りというか、とにかく骨の間、身体の奥の方に鋭い痛みが数秒置きに起きるのです。

最初は「痛いな」程度でしたが時間経過とともに痛みはどんどん強くなってきます。あまりに痛いのですが、どの医者に訴えればいいのかわかりません。内科? 整形外科?  そのうちそんなことも考えられなくなってきます。人生初の、と言える強さの痛みがです。

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折り悪しく曜日も時間も病院には頼れない頃合い。しかし、やり過ごすという選択はとてもできない痛みなので、119番に自分で電話をかけました。そう、おじさんは一人暮らし。一人者は自分でできるうちにやっておかなければ、身動きが取れなくなるのです。

消防所のごく近所に住んでいたので、電話を切ってから5分ほどで救急車はおじさんが住むマンションに到着しました。自力で玄関の外に出て、ドアの直ぐ前で担架に乗ります。1Kの自室から玄関までが痛みのせいでとても遠かった。痛みで碌にものを考えることもできません。

救急の人は、戸締まりを気にしてくれます。「鍵はどうするの?」と訊ねられるので施錠の仕方を答えるのですが、3人ほどやってきた救急隊員はそれぞれに矢継ぎ早の質問を寄越すので、おじさんの答えが問いの主までなかなか届きません。何で3人同時に質問してくるねん、わし聖徳太子やないっちゅーの。

通路でワイワイやってるものだからお隣さんが何ごとかとドアから出てくるし、居住歴3年にしてはじめてお隣さんと顔を合わせた瞬間でした。でも痛みで朦朧としてるからおじさんはお隣さんの顔を憶えていません。

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ようやく担架が動き出しましたが、おじさんが住む部屋は3階で、3階建ての建物なのでエレベータがありません。建築法上エレベータの設置義務があるのは4階以上がある建物なのですな。3階以下の設置は任意なのでついてないのがほとんどなのです。

その上、おじさんは紛う方なきデヴなので、担架は1階降りるたびに床に下ろされて、救急隊員がフーッと息をつきます。移動中に「100kgないですよね?」と訊かれたりしましたが、流石に100kgはありません。でも搬送中ずっと「デヴですみません」と思っていました。

そんなこんなでやっと救急車の中へ。しかし、ここからがまた長い。身分証明書(運転免許証でOK)を求められたり、名前や家族構成を訊ねられたり、かかりつけ医を訊ねられたり、またその間に受け入れ病院の問い合わせをしていて、「この病院でいいか」などと訊かれたり、救急車を呼ばなくてはならないほどの重篤な状態の患者がこんなに対応できるかよう(悲鳴)。

停車中の救急車の中で20~30分ほど質問攻め。それからやっと発車です。おじさんが住む市内には救急を受け付ける総合病院が2箇所あります。おじさんは前回、救急車に乗ったときと同じ病院を選びました。

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さて、ERに到着してベッドに移ると、救急隊のみなさんの仕事はそこでおしまいです。おじさんの主訴は耐え難い痛みですが、その原因が不明なのでそれを探るところからはじまってしまうのですね。いや、いろいろやる前にとりあえず鎮痛の処置をしてほしい……。

血圧測定、血中酸素濃度測定、採血、採尿などなど……たっぷり小一時間は処置なしのままで、そうするとその間に痛みは何となく薄れはじめていて、検査の結果は「異常なし」で結局原因は不明のままです。でも痛いので取り敢えずの鎮痛剤の点滴をしてくれました。これを最初にしてほしかった。

点滴も小一時間ほどでした。終わる頃には痛みは9割方消えていたので「帰っていいです」とのことで救急医療料金を清算して退院。このときのおじさんが思ったのは「この処置内容なら救急車に乗らなくてもよかったかも」。病院を出ると深夜も深夜、日付が変わろうかという頃でした。

謎は謎のまま

これまで経験したことのない強烈な痛みは原因がわからないままで、いつ、何をきっかけに痛みが再発するかわからないので、ずっとビクビクしていました。一応、原因を探るべく病院には行ったのです。複数箇所複数科を渡り歩いて、得られたのは次のような結果です。

泌尿器・内科(主治医)「腎臓や胆石ではないみたいだし、整形外科じゃない?」
→ 整形外科「骨に異常はありません。循環器内科じゃない?」
→ 循環器内科「どこにも異常はありません。主治医に訊いてみて」
→ 泌尿器・内科「何やろね?」

という、たらいまわしの上、原因はわからずじまい。わかったのは整形外科・循環器内科・泌尿器科・内科の各科でそれぞれにいくつかの検査をした結果、どこも悪くない=とても健康だということです。やったネ!(ええー?)

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その後「再発しそう」ということは何度かあったものの再発はなく、持病でしんどくなる以外には何ら異常は出ていないのですが、何だか釈然としないのでした。

救急車に乗った2例をお話しした訳ですが、一方は救急車に乗るつもりはなかったけど乗って助かったお話、もう一方は救急車に乗らないとどうにもならないと判断して乗ったものの救急処置はいらなかったんじゃね?というお話でした。

人体とは不思議なもので、多少の傷なら放置しても治癒してしまうけれど、特に原因もなく痛みが発生することもあるのですな。そういうことがわかった経験でした。

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救急車で運ばれた話(1)〔個人史27〕

ごきげんよう、風呂上がりには頭に化粧水をつけているおじさんです。保湿。

前回は、おじさんの人生の転機であった半年×2回の精神科入院を終えてからのお話をしておりました。そろそろおじさんの個人史、半生記もおしまいに近づいております。

おしまいにしてしまう前に、忘れがたいものがありますので、そのお話をしておきましょう。救急車の経験とうれしいご依頼の仕事と、死を目指したお話です。

増え続ける咳

おじさんは50歳になるまでに2回、患者として救急車に乗ったことがあります。どちらも40代後半になってからで、そのうち1回は他者が呼んだ救急車、1回は自分で呼んだ救急車です。まずは1回めのお話。2015年のことです。

冬でした。咳が出てくしゃみが出て鼻水が出て治まらないので、病院に行きました。これはインフルエンザかもしれんな、と思いながら受診したところ、医者に「レントゲン撮ってきて」と言われました。その病院は小さな個人医で、レントゲン撮影の設備がなかったのです。

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おじさんが住む市内には「成人病センター」というのがありまして、そこは設備がない病院から依頼を受けてレントゲンやらCTやらを撮影してくれるのです。病院からも自宅からもやや離れた場所にありましたが、何とか行ってきました。

しかし、撮影したもの(画像)は「3日後に取りに来てね」てことで、また3日間待機することになります。このブログを書く現在から5年も経っていない当時ですが、デジタルデータではなくレントゲンフィルムを物理でやり取りしていたので、自分で画像を受け取りに行って自分で病院に持って行かなければならないのです。

レントゲンの現像ができるまでに3日間必要だった訳ですが、この間にですね、咳がどんどんひどくなって、3日めの夜には間断なく咳が出るために胸や腹が苦しくなってきました。レントゲンを取りに行く日の前夜です。

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「間断なく」というのは比喩ではなく実際にです。絶え間なく咳が出続けるので呼吸は苦しいし結構体力が削られます。つらいので横になりたいのですが、咳って身体を横にするともっとたくさん出るようになるのですね。横にもなれないから眠ってやり過ごすこともできません。

夜間救急センター

あんまりしんどいので救急車に来てもらおうかと思いました。しかしその頃からタクシー代わりに救急車を呼ぶような案件が増えていて、ほんとうに生死の境にいるような人たちが救急車を使えなくなる、といったことが訴えられていたので、まずは119ではなく7119番に電話しました。

7119番とは、救急車を呼ぶべきか待機すべきかを相談できる窓口です。そこで病状を訴えてみますと「待機」の指示が出ましたので、救急車は呼ばないことにしました。

が、夜はあまりにも長いです。一ト晩耐えてレントゲンを取りに行ってさらに病院へ行くことを考えると、現在が苦痛でなりません。あまりに苦しいので、近所に住む姉に連絡して自動車で夜間急患センターに連れていってもらいました。既に自力で移動できる状態ではなかったのです。

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急患センターでは咳止めを処方してもらえました。帰宅後、薬を服もうとしますが、咳が出通しなので錠剤と水を口に入れて飲み込む隙がありません。数回の失敗の後、ようやく服みましたが咳がなくなる訳でなく、それでもいくらかましにはなって横になることが何とかできたので、朝まで少し微睡みました。

病院→救急車のコンボ

そうして眠れぬ夜をやり過ごして朝を待ち、始業時間の9時合わせでレントゲン画像を引き取りに行き、画像を受け取ったその足で病院に行きました。医師にレントゲンを渡し、待合室でぐったりしていると、しばらくして医師が出てきました。

「救急車呼ぶから、入院しよ?」

えええ? 私は今、病院にいるのでは?

医師が指定する搬送先が、おじさんが以前に入院したことがある市内の病院だったので、「それなら一旦自宅に戻って、入院の用意を持って直接行きます」と答えると、「いや、しんどいから救急車に乗って行きなさい」などと説得されました。

よもや病院で救急車を呼ばれるなどとは思ってもおらず、ミョーな気分で担架に乗りました。自分で歩けますと言っても救急車が来たら担架に乗せられてしまうのですね。知らんかった。診察室から外に停めてある救急車までだから、たいした距離ではないのだけど。

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救急なのでER(救急救命室)に運び込まれて、血圧やら血中酸素量やら測ったり採血したりしたと思いますが、この辺りは記憶が定かでありません。はじめての救急車乗車からのER入室だったもので勝手もわからず。

ベッドの上での採尿

ただ「おしっこ採ってください」と言われて採尿コップを渡されて、そのまま放置されたことはよく憶えています。

救急車からストレッチャーでERに入って、ベッドに移ります。ベッドが決まって救急隊員とER看護師との間で患者(この場合はおじさん)の受け渡し手続きが終わると、ずっとベッドの上にいることになります。採尿コップもベッドの上で渡されて、そのままです。「トイレはこちらです」とか何にもないのです。

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「これはこの場で採尿しろということか」と思い、ベッドの上でちんちんを出してコップの中に排尿しました。上手にコップの中に尿が入っていきます。

「すげー、採尿しやすい!」

ちょっとしたカンドーです。

女性型泌尿器を持っている人・持っていた人ならおわかりいただけると思いますが、女性型は、採尿が難しいんですよね。昨今は便器がほとんど洋式なので、さらに難しいです。採尿するときだけは、和式の方がやりやすいんですよね。

女性型泌尿器はコンディションの振れ幅が大きくて、尿が尿線にならないで皮膜状に出たりすることがあります。尿線として出たとしても真っ直ぐ前に飛ぶとは限らなくて、左右のどちらかに任意の角度で斜めになって飛ぶことも多いです。

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義務教育9年間は毎年採尿したものをプラ容器に入れて提出するというイベントがありましたから、その難度はおじさんもよく知っています。だからこそベッドの上での採尿で思いました。

「ちんちんすげー便利!」

現在のおじさんは普段、大小いずれもすわって用足ししますので、ちんちんの便利さを実感したのはこのときだけでした。しかし、こういった経験ができたのはとても有難いことだということは、このときも後にも思いました。

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そろそろおじさんになる頃〔個人史26〕

ごきげんよう島田珠代姐さんと同い年のおじさんです。大好き珠代姐さん。

おじさんの人生の転機である精神科入院とその周辺のお話をして参りまして、そろそろそれもおしまいに近づいております。そして、そろそろ「おじさん」と呼ばれる年令になりつつあるので、「おじさんがおじさんになるまでの話」も終盤ですな。

あと何回更新するかまだわかりませんが、気長にお付き合いくださいな。

退院後の充実期

半年間の入院を2回終えたところで、おじさんは概ね快復しました。しかし、入院が半年×2で1年、入院と入院の間のまる1年間は療養生活だったので、退院して直ぐさま社会復帰できるかと言うと、そんな訳ないのです。1回めの入院を終えて帰宅後直ぐに仕事をはじめようとして具合を悪くした実績もありますし、焦りは禁物です。

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まずは充分に体力を回復させねば、ということで2回めの入院中からやっていたウォーキングを退院後も継続。入院中に独学していたHTMLをもっと使えるようになろうとweb制作の専門学校(短期コース)に通ったり、そこで学んだことを片っ端から使って個人サイトを制作したり、のんびりとではありますが意欲的な退院後を過ごしていました。

このとき制作したwebサイトが地元のコンテストで入賞したり、サイトで公開していたプロフィールや文章作品を見たある編集者から「性同一性障害をテーマにした小説を書いてほしい」というご依頼をいただいて、とあるメディアで1年間連載したり、割りと充実した時期を過ごしました。

ゲイエロ小説のおかげ

この連載が終わった後、また別のメディアで連載が決まりました。今度はゲイをメインにした小説です。と言っても同性愛者の苦悩を描いた社会派なやつではなく実用的なやつ、つまりエロ小説です。

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実はうつ病で倒れる少し前からそういったものを書きはじめていて、雑誌に掲載されたりもしていました。今度はwebメディア上でそういった需要があって、400字詰原稿用紙30枚程度の短編小説を毎月1本書くことになったのでした。この連載が、おじさんのもとに飛び込んできた幸運だったのです。

約3年間続いた連載と並行して、当時発行されていたゲイ雑誌3誌のうちの2誌に投稿を続けて、投稿作はほぼ確実に掲載していただいていました。そうしていただいた原稿料を貯金して、そのお金でおじさんは2005年9月にタイへと渡航します。そうです。エロ小説の原稿料がおじさんの性別適合手術の費用になったのです。

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ゲイエロ小説というものがなければ、おじさんにそれを書かせてくれる媒体がなければ、おじさんはきっと性別適合手術を受けられなかった。だからおじさんはゲイのみなさんに、ゲイエロ小説に、とても感謝しています。ゲイ万歳、エロ万歳。

このブログを書いている現在は、連載させてもらっていたwebサイトも、掲載してくださったゲイ雑誌も、もう存在しません。雑誌という媒体が生き残るのが難しい時代ですし、webメディアも立ち上げられては消えていくことを繰り返していて、世は無常だし万物は流転するんだなー、と身にしみて感じています。

それからのおじさん

性別適合手術を受ける顛末は、当ブログの最初の方に書いてある通りです。大変だったけど、滅多にできない経験ができたし、人に話しておもしろがってもらえるし、泌尿器に軽く障碍が残ってはいるものの普通に生活できているし、手術してよかったんじゃないかな、と思っています。

タイで手術を受けたのは35~43歳の頃(予定では30代のうちに終わるはずだった)で、最後の手術からもうすぐ10年になろうとしています。もう一度同じことをしようとしても、気力も体力もとても足りません。よくあんなことしたもんだと自分で思っています。

タイでの最後の手術を終えた翌年は、後遺症の排尿障碍と尿道狭窄に悩まされることになります。この辺りのお話も既に当ブログには書いておりますね。おしっこが思わぬときに出てしまったり、まったく出なくなったり、手術や検査が痛かったりで散々でした。が、これも人に話すと結構おもしろがってもらえるので、よかったです。

性別適合手術を終えたのが2013年、帰国後に尿道に出た後遺症の治療を終えたのが2014年。それ以降は特に大きなできごともなく……ということもないかしら。2回救急車で運ばれたり、うつ症状にアップダウンがあるのを除けば、特筆することもなく。ああ、仕事でとてもうれしいご依頼をいただきましたな。

では、次回からは救急車の経験と、うれしいご依頼の仕事のお話をしておきましょう。

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よくある質問よくした回答〔個人史25〕

ごきげんよう、加齢で揚げものはあまり食べられなくなってきたけど鶏の唐揚げはどんどん食べられちゃうおじさんです。

前回はおじさんの実父がろくでもない人間で、おじさんは随分抑圧されて幼少期から青年期を過ごしたというお話をしました。要はおじさんの厭な体験をお話しした訳で、読んであまりいい気がするものではなかったと思います。ごめんなさいね。

今回からはおじさんの厭な体験を具体的に話す、ということはないと予定でので、引き続きお読みいただければと思います。

診断前からうつ?

医学的に信用できるのかわかりませんが、雑誌によく掲載されている「あなたのうつ度診断テスト」の類い。ご存じですよね。おじさんは幼い頃から心理学系の話題が好きだったので、そういうのも見かけるたびにやってみたのですが、小学3年生の頃には「今すぐ病院へ」という結果が出るのが当たり前になっていました。

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おじさんにも思春期というものがありまして、その頃は父と同じ建物の中にいるという、それさえもが苦痛でした。20代になる頃には殴られる頻度は減りましたが、それでも父が気に入らないことがあれば暴れたり人に当たったりすることに変わりはなかったので、おじさんは常に「次に殴られたら家を出る」と決めて、鞄ひとつに荷物をまとめていました。

当面、必要な着替えや日用品などを詰めた鞄は、結局のところ家出という用途には使うことがないまま、おじさんは世帯を出ることになりました。穏当に一人暮らしをはじめることとなったのです。一ト通りの荷物を詰めた鞄はそのまま持ち続けていて、後に何度も入院をすることになったときに役に立ちました。いまも置いてあります。救急車で運ばれてそのまま入院、てなことになったときに便利です(経験有)。

それは多分関係ない

おじさんは35歳以降、たくさんの人と出会う機会を得ることとなります。35歳というと、うつ病で倒れて二度の入院を経て、そろそろと復帰してきた頃です。おじさんは精神障碍者であることも性同一性障害当事者であることも隠さないことにしている(自分から喧伝もしない)ので、おじさんがそれぞれの当事者であることを知る人も少なくありません。

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そういった人からときどき訊ねられるのは、「うつ病になったのは性同一性障害が原因か?」ということです。性同一性障害なんて言ってみれば生まれつきのものですし、うつ病の傾向も小学3年生辺りには既にあった訳で、もしかしたら関連はあるのかもしれません。しかし、うつ病の原因を探ることに意味はありません。原因がわかったところで、おじさんくらいの重篤患者になると原因を除いてももう治らないのだから。

それでも、おじさんはちょっと考えてみるのです。考えてみるに、性同一性障害うつ病はカンケーないんじゃね?と思います。というのも、性同一性障害というか、おじさんの性別違和はものごころついたときには既にあった訳で、「あることが標準」だったのです。むしろ「ほかの人もあるでしょ?」的なものだった訳で、ことさら「苦痛」であった訳ではないのです。

むしろ「苦痛」は父の存在です。聞くところによると世間では「父」という存在は頼もしくてやさしくておもしろいものなのだとか。学生時代に同級生から聞いた、父親と対等に会話して、ときには「アホか」などとツッコミを入れたりするのだという話を、おじさんはフィクションとしか思えませんでした。何しろそんなことをしたら、おじさん家では間違いなく殴る蹴る叩くフルコースになりますから。

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自分の家だけでなく、どの家でも父親というものはだいたいそんなものなのだと、自分の父親は多少度が過ぎるだけなのだと思っていたのですが、知見が蓄積されるにつれ、同級生宅のように冗談も言い合えるのが「一般的な」親子なのかもしれない、という風なことが考えられるようになってきました。それにはさらに10年以上がかかったんですけども。

うつ病の原因

おじさんは高学年になるに従い、何とか「法に触れない方法で父を葬り去る方法」はないものかとを探るようになりました。おかげで法律や薬物にやたら詳しい子供になりました。呪術などにも関心を持つようになりました。呪殺を実行・成功して犯人であることが特定されても現在の日本の法律では裁くことができないとか、役に立つのか立たないのかわからない知識を得たりして。

そういった感じで、明らかな苦痛として日々常に感じていたのは父による抑圧で、性別違和はそのほかにある雑多な困苦のひとつだったのです。性別違和は確かに生活の妨げにはなりましたが、父は生存の妨げですらあったので、どちらがおじさんの平安をより侵害しているかと言えば、圧倒的に父でした。

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後にして思えば、20年以上も常に抑圧されてはっきりと苦痛を感じている状態で過ごしていたのですから、何らかの精神疾患を罹患して当たり前だなあ、などとしみじみ。眼瞼下垂の手術でお世話になったM医師の診断で、緊張度が「戦場の兵士と同程度」と言われたのはそういうことなんだなあ、と妙に納得したり。

このような次第で、そもそもの話おじさんのうつ病に原因なんてものがあるかどうかさえ実際のところはわからないのですが、もしも原因があるとするなら、それは父なのだろうと現在では確定的に思っています。でももう他界してしまいましたし、追求したところで完治するわけでもないのですから、これを云々しても詮なきことです。

意識しないで済むということ

そうこうしているうちにおじさんのうつ病歴もまる26年、これまで生きてきた半分以上になりました。ほんとうはいけないことなのですが、うつ病者であることがアイデンティティになってしまっている一面もあります。「自分は病人である」などというアイデンティティは持つべきではないのですが、うつ病とは生涯のお付き合いになるので、仕方がないかなー、とも思っています。

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その一方で、性的マイノリティであるとか、トランス男性であるとか、そういった自覚は薄れつつあります。身体のかたちについては「大満足」という訳では全然ないのですが「これでいい」という落としどころに落ち着いていますし、戸籍訂正により書類で困ることもなくなりましたし、そういったことは意識しない生活ができています。

特に性別を意識しなければならない場面も現在ではほとんどないので、性的マイノリティやトランス男性というアイデンティティを持つ必要がないのです。意識するのは医者にかかるときと、学生時代の話をするとき、性的マイノリティとしての話をするように依頼されたときくらいかな。

精神障害者であることも性的マイノリティであることも、どちらもできるだけ意識しないでいられるといいな、と希望しております。

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家庭環境と父の思い出〔個人史24〕

ごきげんよう、風呂場で頭髪を剃るときに剃刀の換え時を見誤って湯舟を赤く染めたことがあるおじさんです。剃れない剃刀ちょーキケン。

前回は閑話的に歯科医でのできごとと、それから父の葬儀のお話をしました。おじさんの公的男性デビューの場でした。それは抑圧されていたおじさん自身の解放の場でもあったのです。

ということで今回からは、おじさんはどういった抑圧から解放されたのかというお話をしてみましょう。ちょっと厭な感じのお話ですが、ごめんなさいね。

おじさんの育成環境

おじさんの家庭はちょっとフクザツでした。父はいましたが、家にはいませんでした。他県に住んでいて、月に1回帰ってきて数日間滞在して、また他県に帰るのです。

おじさんが小学校に上がるまでは、母も家にはいませんでした。「地方巡業」する仕事をしていたのです。幼いおじさんの面倒を見てくれていたのは、主に祖母でした。母方の祖母です。おじさんの実家は母の生家でもあったのです。

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祖母は1900年生まれ。1900年と言えば明治33年。「日本のシンドラー」こと杉原千畝氏と同い年です。海外では『星の王子さま』の作者サン=テグジュペリが同年に生まれています。おじさんとちょうど70歳違いです。

おじさんの記憶ももう薄いのですが、祖母は割りとおじさんのやりたいことをさせてくれていました。4歳が5歳の頃にはおじさんは台所で一人で火を使って即席ラーメンを煮たりしていました。やり方を祖母が教えてくれたのだと思います。

いま思うとよくやらせてくれたなあ。おじさんはそれくらいの年令の人に一人で台所を使わせるのは怖いです。同じように、大工道具を使って工作っぽいこともするようになっていました。のこぎりなんかも自由に使わせてもらっていました。いま思うと(以下省略)。

「本を与えておけばグズらない子供だった」と母が後年、述懐しております。そのためか、「小学○年生」を就学前から読んでいました。むしろ就学後は読まなくなりました。ほか「たのしい幼稚園」「テレビランド」「テレビマガジン」、いまも健在の「てれびくん」など。

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こういった雑誌は総ルビです。漢字にはすべて読み仮名がついています。そのため早くから漢字が読めるようになったおじさんは、やはり就学前から少年漫画誌も読むようになりました。理髪店や喫茶店には必ず漫画雑誌がおいてありましたから、そういうところに行ったときは必ず読みました。

おじさんの最古の記憶が残っている1973年頃というのは「週刊少年チャンピオン」の全盛期で、手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』が……ととと、これ以上はヲタク語りが止まらなくなるのでやめておきまして。この頃既に、本を読んだり工作したり、一人で時間を過ごす習慣ができていたのですな。

抑圧するもの

さて同様に「この頃既に」、おじさんは父が嫌いでした。父はおじさんを殴るからです。ものごころついたときには既に、おじさんにとって父は「殴る人」だったのです。

「悪いことするから殴られるんじゃないの?」とお思いの御仁も多いことと思いますが、おじさんと父の間に限っては「複数の視点からどのように考えてみても」、おじさんに落ち度があると納得できることがなかったのです。それは、どの例を取ってみても。

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たとえば。父が焼き鳥を買ってきて、おじさんに「食べろ」と言いました。おじさんはそのとき、腹も減っていなかったので「今いらない」と言いました。殴られました。1発2発じゃないです。父はいつも、殴りはじめると短くても1分間は繰り返し繰り返し何発も殴り続けます。

たとえば。1970年代当時はまだ電話がない家というのも多く、おじさん宅の裏手に住んでいたMさんご一家もそういったお宅でした。Mさんご一家への連絡はおじさん宅にしてもらい、電話を受けた者がMさんを呼びに行くということをしていました。こういった連絡の形態を「呼び出し電話」と言います。

さて、我が家に電話がかかってきました。電話を取った父が「Mさんを呼んでこい」とおじさんに言いましたが、Mさんと言ってもMさんご一家は4人家族です。どのMさんを呼べばいいのか、と思い「Mさんの誰?」と父に訊ねました。殴られました。

さらに、たとえば。風呂を沸かしているときに「火を止めたか」と父に訊ねられたので、「風呂の火?」と確認すると、殴られました。

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一事が万事こんな風で、おじさんから見ると父は「突然怒り出して殴る人」でした。おじさんは自分の何が悪いのかわかりません。父は理由も言わずに殴るので。あるとき、「お父さんがなぜ怒っているのか(いつも)わからない」と(怒っていないときの)父に言ってみたらば、「わからないなんておかしい」と言われて、いまもわからないままです。

こんな次第なので、おじさんはものを言わない子供になりました。おじさんが口にした何が父の気に障って怒り出すかわかりませんから。さらには、側にいたらいつ怒り出すかわからないので、食事どき以外は別の部屋にいるようになりました。部屋数がある家に住んでいてよかった。

おじさんが幼い頃は月に1回、帰ってくるだけだった父が、おじさんの中学校入学を機に常時在宅となりました。さらに息詰まる日常。

父が別宅で生活をしてしたのは、仕事のためでも何でもありません。おじさんが小学生になる頃には父は糖尿病を患っていて、それを理由に働かない人でしたから。1日中、家にいるか、そうでなければ公営ギャンブル、競輪・競馬・競艇に出掛けるかの何れかです。そして50歳を過ぎてからパチンコを覚えるのです。おじさんを育てて養ってくれたのは母であって父ではなかった、と思っています。

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学生時代のおじさんは好きで勉強していたのですが、きちんと宿題をやったり本をたくさん読んだりするおじさんに父が「お前な、勉強なんかしても将来儲からないぞ」などと言ってきたりしました。確か、おじさんが小学6年生のときです。イラッとしたおじさんは「『財を積むこと千万も薄芸身に随うに如かず』と言うし」と言い返してしまいました。そのときは殴られませんでした。

今回の当ブログはぱぱっと思い出せたことだけを書いたものです。お読みになって、イヤーな気分になってしまった人もおられるかと思います。書いているおじさん自身、ちょっとイヤーな気持ちになってます。

よーく思い出したらまだまだこの手の話は積もった30年分は出てくるのですが、やめておきましょうね。次回はこの続きのお話ですが、イヤーな経験のお話はここまでにしますので、安心して次回もよろしくです。

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歯科医と葬儀〔個人史23〕

ごきげんよう、コンビニのお手拭きが自宅にどんどんたまっていくおじさんです。

前回は、再々入院したときのお話を手短かにしました。「歩いてた」というのと、「ワールドカップの日本の試合開始を看護師が知らせに来た」というお話ね。日韓共催ワールドカップの年(2002年)におじさんは入院していたのですな。

さて、同じ年。おじさんが退院してすぐに実父が亡くなりました。その辺りのお話を今回はしましょう、と言っていたのですが、先にひとつだけ、忘れないうちに違うお話をしておきますね。歯科医の話です。

見知らぬ歯科医にリードされるのこと

実はおじさんの精神科入院はこれにておしまいではなく、この後も短い入院を何度か繰り返します。短い入院のためたいしたエピソードもないのでその頃の話は割愛しますが、おもしろい話があるひとつので、これだけお話ししておきます。

入院中に、歯が痛くなったことがありました。虫歯です。頭と腹と歯が痛いのは我慢できるものではありません。入院していた病院は総合病院ではないので歯科はありません。許可をもらって、病院近所の個人医にしばらく通うことになりました。

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はじめての通院日。問診票を書きました。その頃のおじさんは既に男性として生活していて、男子病棟に入院しておりましたが、戸籍はまだ生まれたときのままでした。が、歯科医なら別に告知しなくてもいいだろと思って、問診票の性別欄は「男」に○をつけておきました。

そして診察。どの歯が痛いということは問診票に書き込んではいますが、取り敢えず歯科医はすべての歯を確認します。で、奥歯を見ているときに、歯科医がぼそりと呟いたのです。

「お姉さんやったんか……」

ワタシ何も言ってませんが。付き添いもおりませんから、おじさんのことを知っている人はその場にはおじさんしかおりません。即ちこの場には、おじさんが生まれたときに判定された性別を知っている人はおじさんだけだし、おじさんはそのことを1ミリも口に出していません。

でも歯科医はおじさんの生まれの性をリードしてしまいました。歯。歯なのですね。歯を見たらわかるんですね。詳しいことは聞けませんでしたが、見る人が見たら歯のかたちか並びか何かで生物学的性がわかってしまうんですね。はー知らんかった。

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という経験でした。後にも先にも歯を見て性別を指摘されたのはこのときだけです。つーか、おじさんがリードされた経験というのがこれ1回きりです。

実は実は、このブログを書いているただいま現在も歯科医に通院中ですが、現在の主治医には何も言われておりません。きっと、思っても口に出さない医者の方が多いんでしょな。……口からぽろッと出ちゃったんだろね。

父の葬儀

さて、お話はガラッと変わります。前回のおしまいに予告しました、おじさんの父の訃報のお話です。前回もちらりと申しましたが、おじさんは個人史を語る上でこれまで父のことはほとんど述べてきませんでした。

機会がなかったのも理由ではありますが、あまり書かない方がいいという気持ちもありました。おじさんはものごころついた頃から父が心底嫌いで、父のことを書くなら厭な言葉をたくさん連ねるだろうということが容易に予想できたのです。

だから、父が亡くなったと連絡を受けたときも「やっと死んだか」くらいのことしか思いませんでした。10年か20年前ならバンザイしていたかもしれませんけども。

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それくらい厭な存在なのですが、現在のおじさんを形成する上で確実に影響しているだろうということは、おじさん自身も思っておりますのでね、語っておくべきなのかもしれません。

その死に当たり、ひとつの経験がありましたので、そのお話をまずはしましょう。

前回の退院の際に担当医を通して家族にカミングアウトをしたおじさんでしたが、父の葬儀はそれからはじめての一家公式行事です。

実はこの5年くらい前、おじさんがまだ実家暮らしで世を忍ぶ仮の女性として生活していたとき、父は余命宣告を受けました。もともと若い頃から糖尿病を抱えていて、それを端に腎臓病を発して、さらにヘビースモーカーだったので肺癌を発症。この頃はまだ父は自力で活動できていましたが、余命宣告が出たとあってはそれなりの準備をしておかねばなりません。

というので、母が私を連れて喪服を買いに行ったのです。そのときに女性用の喪服を買って、ずっと新品のまま収い込んでいました。しかし、おじさんはこの喪服を着ることがありませんでした。何故なら、父の葬儀ではこの喪服を姉が着たからです。若い頃よりサイズアップした姉は、自分の喪服を着ることができなかったらしいです。

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では、おじさんはどうしたかというと、斎場で借りました。ダブルのスーツです。男物です。母がそのようにしなさいと言いました。

遺族ですので葬儀の際には葬儀場の入口に立って弔問客を迎えるという仕事があるのですが、おじさんは父の葬儀ではじめて血縁者らの前に男性として立ったのです。もともとは三女でしたが、次男扱いです(長男はいたのですが、おじさんが生まれる前に亡くなっています)。

葬儀や、あるいは結婚式などの冠婚葬祭の席は、親戚等血縁者へのカミングアウトのいい機会です。公式の場ですし、性的マイノリティに偏見がある親戚などがいたとしても、特に葬儀では家族を亡くして消沈している(はずの)遺族に対して、わざわざ厭なことを言いに来る人でなしも滅多にないでしょう。文句を言わせぬカミングアウトの場として冠婚葬祭も使いようです。

このような次第でおじさんは公的に男性デビューしました。

というところで、区切りがいいので一旦おしまい。続きは次回。ででん。

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